濱野成秋
 
 室生の春はまだあさい。狭霧が谿たに沿いにたゆたい、垂れめるとみせかけながら、ゆっくり塔堂のほうに這い昇ってゆく。流れは鳴りを潜め、霧が徐々に川面をたち去ってくれるのをじっと待っていた。
寺に向かう太鼓橋が朱の手摺りにかすかな陽をうけ、たもとまで来た瀬島志保を迎えていた。
 この前ここを訪れたのはいつだったかしら。
 志保は黒々とそびえる堂影を遠望しておもった。いくどとなく訪問して熟知しているはずなのに、初めてきた感さえある。新緑のころであったか。そうだ、夫と一緒だった。高階たかしなさん、約束の時間より遅れて戻られるんだそうだ、時間がたっぷりあるから、お堂めぐりでもするか、と夫に誘われるまま、この橋を渡ったのだった。
あの日、夫は高階先生に買い上げていただく予定の李朝粉引茶碗の入った桐箱を風呂敷に包んで、大事そうに小脇に抱えていた。粗相をすると大変だから、高階先生のうちに預かってもらえばよかったのに、と言ったら、いや、お納めするまでは、そんなことはできん、と夫は首を振った。きっと、先生の前でうやうやしく拝礼し、おもむろにこの包みをとりだして、開いてみせる気なのだろう。
そうおもったら、きゅうに夫と並んで歩くのがいとわしくなった。わたしはあの頃から瀬島を疎んじていたのであろうか。
 橋を渡りきったところで、拝観をねがい出た。まだ時間が早いせいか、それとも寒気を嫌ってか、ほかに来訪者の姿はみえない。川沿いの、仁王門へと続く径は土の地肌に明け方の雨をふくませている。冷たい。大地の感触を履き物のうらで覚えつつ歩き出すと、傍らの川面に目がとまった。
 わたしは夫を、それ以前とは違った目で視続けるようになったのは、たしかに、前回ここを訪ねてからだった。他人というより、自身の心の裡を見据えるにふさわしい場所なのか、それとも、そんなめぐり合わせなのか。おそらくここで出逢った、自分たち夫婦だけの変貌に力をおよぼす何かが、この山ぜんたいにあるのだろう。この流れにしても、堰をもうけ、水流をほかに移すことなど考えなくてよいのに、自分たちにはそれを求めてくる。永遠に現在のまま流され続けてよいのか、あの、きたなさが透けてみえる流れに、あなたはいつまでぐずぐず身を浸らせているのだ、と語りかけてくる。
志保は仁王門を潜ったのをよいことに、流れから目をそらせて左手にあらわれた石段をゆっくり昇りはじめた。左右にそそり立つ杉の古木が往く手はこれしかないときめてくれる。黙々と足許に心を集中して踏みしめてゆくと、やがて正面がぱっとひらけた。金堂が朝陽を浴びて耀いている。意想外に明るい空間がそこにあった。
 以前来たときも、ここまで来てほっとしたものだった。あの頃はまだ期待感を心の片隅に持ち続けていた。隆志が高校一年で深雪が中学生。こちらまで青春を、いや少なくとも仕上がりを待つ愉しみがあった。ちょうどこの金堂の前に立ち、こけら葺きの軒反りに宿る雫が朝日に映えて、しだいに膨らんでは光の粒になるのを見守るに似た、心のときめきというものがあった。しかしいまはどうだ。創られていく、ということがまるでないではないか。
 志保は堂にのぼり、廻縁まわりぶちに起ってもときた径を振りかえった。この前は縁束に凭れてそうしたものだった。石楠花の花が鎧坂の両側に点々とみえた。だが今、目にする石段は沈みきり、石楠花の葉も黒ずんでいる。あの、淡紅色の花を愛でた日々などあったともおもえなかった。
 これから潅頂堂、五重塔を経て六番霊場を横目に、奥の院まで登るのか。そうおもうと気力が萎えていくようであった。綯いあげた縄がほつれてはゆっくりと千切れてしまう。そんな人生にありながら石段を登るのか。
 志保は視線を目近なものに投げた。目近なものなら何でもよかった。視上げると金堂の軒廻りに二重にならぶしげたるきがぎっしりと組み込まれている。歳月を超えてみごとな造形を崩さずにそこに位置しているのが不思議におもえた。丹塗りが少々剥落しても、かわりがない。生命のない造形物にかわりがないというのは、皮肉なものだった。瀬島とわたしとの組み物は軒下どころか、土台までもゆるがせにしているのに、と視つめていると、朱色の褪せた木肌が色艶を失くした女の肌にみえた。
「志保さん、久々の室生寺ですやろ、奥の院まで廻らはったら」
 今朝がた、川を隔てた岡の中腹にある高階邸を辞すとき、高階先生からそう言われた。
「こんな時期に拝観やなんて、お寺やってはらへんかも……」
「ああ、だいじょうぶですわ、お寺のほうに電話して言うといたげます。管長とは昔っからのつきあいやさかい、心配あらしません」
「それでも先生、わたしだけ観せてもらうのは、気がひけます」
「あなたは仏像のよう解るおひとや。そない言うときます、まず庫裡へ寄らはって、わしの名前出しとくれやす」
 はあ、と答えた志保だったが、むごい助言だと思った。高階先生は瀬島と自分とが初めて逢ったのが、この室生寺だと知っていてそう言う。昨夜の、瀬島を待ちつつひと足先に始めた夜咄よばなしの茶事でのわたしの打ち明け話を心に留めていれば、こんな勧めはできないはずなのに。しょせん、他人事とはそういうものなのか。
高階には悪いが、志保はまっすぐ帰途につくはずだった。途中、どこかで断りの電話を入れておけばよい。そうおもって、だらだら坂を降りてきたのだが、バス停附近には電話がなかった。仕方なく宿や土産物店のある太鼓橋のたもとまで歩いたが、店はどれも閉まっていた。ふとひなびた宿屋に目がとまった。玄関先は森閑としている。営業しているのだろうが、客が逗留しているともおもえない。ここは瀬島といくどか泊まったことのある宿だ、室生川に沿ったあの窓から、朝焼けの山際をあの欄干に肘をついて、二人して眺めたものだ、と考えていると、やはり寺を訪ねてみようかという気になった。しかし今回限りにしよう。
大それたことだが、視おさめ、などということがわたしに許されるならば、と狭霧に烟る堂影を視上げておもったのだった。
 これから堺の自宅にまっすぐ帰っても仕方がない。いやなすすべがないどころか、瀬島との生活臭が色渡く遺った家にいると、いりくみねじれた昨日までの歳月とひとり対峙しなければならなくなる。それが視えていただけに、帰途につきたくなかった。塔堂をめぐり歩けば、あるいは心が浄われるかもしれないとおもうのは、身勝手な期待というものだろうが、何かに期待を持ちたかった。瀬島と逢った日やその後の若い日々が醜悪に甦るかもしれないが、それはそれで、これから先の自分の生き方に示唆を投げかけるかもしれない、と自分に言い聞かせたのだった。
 だが皮肉なことに、さっき鎧坂の石段を一歩一歩踏みしめて昇ってくるとき、まっさきに甦ったのは、耳許で吹きかけてくる酒臭い瀬島の吐息だった。つい最近のことばかりが脳裡にまとわりついた。夜おそく、酔って帰る夫の赤らんだ顔がそこにあった。これも仕事のうちだよ、つきあいも大事だからね、と殊勝な弁解をしていたのは昔のことで、ここ何年かはただ酔って帰った。誰と会い、誰がいまの自分を引き立ててくれるのか、自己中心的な打算だらけの話が多かったが、それでも意思の疎通はあった。
しかし酔って帰っても、けっして多弁にさえならないのが、最近の夫の姿であった。
「明日からしばらく、唐津へ出かける。こう雑用に追いかけられていたんでは、ろくな仕入れもできないからね」
 五日ほど前だったか、深夜、玄関先でタクシーを降りた瀬島は志保の部屋まで続く板張り廊下をずかずか歩いてくると、襖をあけるなりこう言った。大分酔っているふうだった。微睡まどろみから醒まされた志保は蒲団の中で、ええ、と答えたが、相手には聞こえないようだった。夫は彼女の蒲団まで来て畳にごろりと横になり、首をこちらにねじ曲げて、うす明かりを受けてじっと眼を閉じたままの志保の横顔を視た。
「聞いているのか、おい」
 いまさら妻の許しを得る必要もありますまいに、と言ってやりたかった。ふだんはめったにこの寝室に来る気配もみせない夫だった。それがたまたま何かあると、帰宅するなりまっすぐここに踏み込んでくる。いつもいやな予感がした。夫は一方的に用件を述べると、たいていさっさと出て行く。あとに、予感が的中した感じだけが遺った。とくにこの前はおもい出したくもないことばかりが、ないまぜになって頭を擡げた。
志保のもとを去っていった季実の存在がたえず見えかくれした。
 季実さんのマンションで過ごす手筈を何日もまえに決めておきながら、切り出しかねていらしたのね、お気の毒に、となじってやりたいとおもった。しかし志保は、
「今度のお帰りはいつ頃ですの。明日からは私のほうも忙しゅうなるもんですから」となにげない調子で問いかえした。
 自宅で茶道教室をひらき出張教授もある志保は、きまった時期に忙しくなる。それに合わせて夫が出張すると言い出すのは、わたしへの遠慮からだろうか。だからいつもお帰りはいつ、と訊いてやる。もう儀式みたいになった、と志保はおもった。
 用件はそれだけか、と考えていると、瀬島はしゃがれた声で、
「室生の高階邸でやる茶事はいつだったかな」と訊いてくる。
「今週の土曜でしたやろ。キャンセルなさるおつもりなの」
「いや、先生のお招きとあらば、迂闊に失念するなど、できんからね」
「と言うより、茶事をいい加減になさっては……」
「わかってるよ」
瀬島の言葉に打算が覗け、それに志保がいらだつと、夫も神経をたかぶらせた。いつも商売がらみで他人を視る夫の心根を賤しくも情けなくもおもっている志保に、瀬島は瀬島で言いつのりたいようだった。しかし口論には至らなかった。口論になる以前の問題として、何かが欠落していることを、おたがいが感じ合っていた。
「九州から帰って来はるの、間に合うやろか」
「だいじょうぶだとおもうよ。もし飛行機が遅れでもしたらなんだから、きみが先に行っててくれないか」
「それはかまわないけど……」
 空疎なやりとりだった。以前の瀬島ならいざ知らず、近頃の瀬島は、有田、伊万里、唐津と、窯元をまわって新しい作家を発掘するなど、めったにしなくなっていた。たいてい売りやすい、名の通った作家の窯から大量に製産される弟子たちの手になる作品を、写真やサンプルを見ただけで何十個と発注している。そんな商売を時々こちらの目につくようなほど大胆にやっておきながら、不意に、大して必要もなさそうな時期に出張を言い出す。
そんな瀬島も憎かったが、それと識りつつ、気づかぬ振りをして、その言葉を受けている自分にも、いや気がさした。
「大分気ぜわしい旅程になりそうだが、間に合うようにするよ」
「高階先生はこの前電話で、あなたのお店から納めてくれはった黄瀬戸の時代物、あれえらい気に入りましたて、言うてでした。今度有田へ行かはったら、なにか新作でええもの、貫うて来たげたらどないです。商売はぬきにして。せんせは新作物のほうがほんまはお好きなんやし、それにわたしたち、結婚当時から今まで、もう二十年以上もお世話になってるんやさかい、たまにはそれくらいのことはさせてもらわないと……」
「わかっているよ」 憮然たる口調で瀬島は言葉を被せてきた。「ぼくも何かお持ちしたいとは考えていたんだ」
 夫はべつだん戸惑うふうでもない。高階家への土産はどうせ日頃の商い物の中から、適当に選別するのだろう。結婚当時の苦しい生活を支えてくれた恩人などという感情は、もうかけらも残していないのかもしれない。高階先生は自分の妻の師として好意を寄せてくれる、だから利用してきた、といった図式しか、この男にはないのであろう。
 妻の苛立ちに、瀬島はまた眉を険しくしていた。相手の心をたがいに読みながら核心を遠まきにやりとりをする。こんな対話を何年続けてきたのだろうとおもうと、志保はしだいに自分の心がねじくれていくのが判った。「どうしても間に合わへんのなら、どないしはるんですか。直前になって日延べしてほしい、て電話でもかけはる気ですか」
「くどいね、帰ってくるさ、たとえ唐津まで廻りきれんでも、いったん戻って来ることにする」今回の出張は本当かもしれない、とおもいながら、他方では季実のマンション前でタクシーを降り、まっすぐエレベーターまで歩いてゆく瀬島の姿を視ていた。やっぱり遅れたりするはずないわ。季実さんのうちから室生まで、たったの一時間やもの。ゆっくり仕度して間に合いますわよね、と次から次へと夫を責める言葉をおもい浮かべる自分の姿も、志保は同時に視ていた。情けない姿だった。しかし夫にも自分の苦しみを味わわせるのでなければ気がおさまらなかった。
「でも、唐津の先生方にも、十分尽くして差し上げねばね」
 こう言えば、さすが何か感づいただろう。志保は夫の表情を盗み視た。だがぼってり肉づいた頬が光線の具合か、ひどく蒼ざめてみえるだけで、苦笑いの翳すら差してはいなかった。
 ――
 鎧坂を登ってくる人影に、志保はふとわれにかえった。老人だ。さっき仁王門で拝観券を切っていた人らしい。案内してくれるのだろうか。老人は金堂までよろよろやってくると、一気に段を上がって、分厚い木の扉の錠前をはずし、引きあけてくれた。堂内はうす暗く、湿った空気が澱みきっている。老人が先に足を踏み入れ、志保にはいれと、足許を照らす。電池の光に誘われて草履を脱ぎ、一歩踏み込んでみると、ひえびえとした板の感触とともに、底のほうに沈みきった冷気が躯ぜんたいを包み込むように這い昇ってくるのを感じた。促されるままに、空ろな目を奥に投げる。本尊の釈迦如来がまるい光の中央に浮かんで立っている。薄明にも眉目がくっきり見えた。お釈迦さんの左側のは文殊菩薩でそのまた左が十一面観音で、と老人は説明しだす。しかし志保は釈迦如来の胸から腹へ、衣文が波のように垂れかけて、ふくよかな肉取りを左右から包んでいるさまを視ていた。包容力とはがんらいこのような肉體に宿るのだろうか、と考えていると、ふと夫の肉をおもい出して、あわてて目を逸らせた。「お釈迦はんに見とれておいでですな」
「いえ、そんなことは……」
「お目が高い。そら右っかわの薬師さんや地蔵さんとは、出来がちがう。そやそや、お釈迦はんの光背は極彩色の舟形一枚板ですわ、見事でっしゃろ、ようご覧になっとくれやす」
 懐中電燈の光が矢印代わりに、めまぐるしくちょこちょこ動く。老人は興奮気味に仏像の由来を喋りまくったあと、ほっと一息入れた。疲労の翳がその頬にみえた。老人はそれでも「せやけど、ほとけはんちゅうもんは、何べん拝ましてもろても有り難いですなあ」
 と志保に同意を求めてきた。はあ、と曖昧に頷くと老人も深く頷きかえした。おそらく長い人生の間には、いろいろと心を労すこともあっただろうに、いまではどんな苦い記憶も超越して仏像に心を注げる境地に至っているのであろうか。志保はこの老人を羨しくおもった。
「どっから来なはった」
「堺です、堺の南のほう」
「観心寺のほうでっか。あすこにも、ええほとけさん、いたはる」
「いえ、あそこまでは……あの麓の丈六寺のあたりです」
「それはそれは」 老人は目をかせた。「丈六やったら立派な仏像もあるし、立派な先生も住んだはる――」
 先生とは誰のことか、志保にはおもい当たらず、黙っていた。老人はさらに何か言いたげだったが、志保は老人から目を離してまた釈迦如来を視上げたので、口を噤んでしまった。しかし視線は志保の横顔に注がれ続ける。それを避けて堂内を闇のほうに歩んだ。ふたたび光の中に浮き上がるほとけたちに語りかけたい心境だった。ほな、ゆっくり観とくれやす、と老人は志保に電池をわたして言うと、傍らの床几にどっかり腰をおろした。すみません。いえ、かめしまへんて、なんぼでも時間かけてもろてもええ。このほとけさんは、そういうお方に観てもらいたいんですわ。
 志保は言葉に甘えて釈迦如来の前に進み出たが、瀬島とのやりとりがまた頭を擡げてくるのを、どうすることもできなかった。
 あの夜、瀬島はわたしの寝室に来て高階邸での茶事の確認をしたあと、いちど自宅に先生を招いて、正式の炉正午の茶事をもとうと言い出した。露地も中門もかたちばかりの庭でもいっこうに気兼ねをしないのは、いかにも瀬島らしかったが、現在の状態ではとても満足な茶事などできそうにないのを知りながら、無理な案を出してくるところがなんとも解しかねた。季実や高弟たちが辞めて去ったあと、志保のもとには、割稽古をこなすのに精一杯の弟子たちばかりが残った。
そんなありさまで高階宗元を迎えるのはしのびなかった。まさか辞めていった季実を呼び戻せという暗示でもあるまい。志保はおもわず夫の顔を窺った。
「なんで宗元先生を、いま、こんな所にお呼びするの。何を考えてらっしゃるの、あなた」
「いや、たんにお返しをしたい、何かの形で、とおもっただけだ」言いおわると夫はこちらの苛立ちを意識してか、酔いがぶり返したふうに荒い呼吸をした。そのままぺったり背中を青畳にくっつけて寝そべっていた。手をそろそろ伸ばして、こちらの蒲団の中に滑り込ませてくる気だろうか。そうなれば何と言って躱そうか。いや堪えて受けねばならないのか。志保は身構えていた。が、瀬島は逆に床の間のほうに寝返りを打って、一行物の掛軸をしげしげ眺めてから、そうだ、高階先生にはこの部屋に泊まってもらって……と、独り言のように言った。その日はおれの寝室に来い、と言うことかとおもったが、志保は聞き流していた。夫は今の弟子たちの力量を訊いてくる。季実の名こそ出さないが、辞めていった高弟たちはどうしているのだろう、とも言った。かわいそうに、ありや濡れ衣だぜ、とも言ったが、志保はそれには取り合わなかった。
 季実を辞めさせるきっかけとなったのは、手塩にかけた弟子たちばかりを招いて、茶事の総ざらえをした時のことだった。万事を心得ている季実に亭主をつとめさせ、志保が客の一人になって懐石をいただきながら、燗鍋、盃、煮物椀、焼き物鉢、小吸い物椀の扱い方をおしえた。縁高に盛った主菓子のあとは中立ちとなり、待合の腰掛けで休んでいた。と、いつも同じ飛び石の中央に置かれている、立入りを禁ずる意味をあらわす関守石が、飛び石の脇に寄ってしまい、しかも縁から地面にころげ落ちそうに傾いでいるのが目に入った。志保はなにげなくその位置をなおそうと近づいた。しゃがんでよく視ると、水を打った石の一つ一つに、微かながら泥の跡がこびりついている。関守石の先まで、それは続いていた。不審におもい跡を辿ってみると、母屋の陰で男女のひそひそ話が聞こえた。まぎれもなく瀬島と季実であった。裏にもうけた縁側に立って、会う日取りを打ち合わせているらしい。細かな内容まではよく聞きとれなかったが、片時の間を利用して密会する、そのことだけで十分だった。戻ってくると、打ち水の溜った飛び石の縁で、関守石がひとつ、黒い棕櫚縄で十文字にゆわえられ、つくねんとすわっていた。その姿に志保は自分の翳をみとめた。
 季実さんには暇を出そう。
 そう決心したのは、けっして嫉妬や意地のわるい仕返しをしたくてのことではない。ただそうする以外、自分と瀬島の将来をまもり、子供たちに悲しいおもいをさせないですむ手だてはないのだと考えたのだった。
 しかしわたしは、本気で家族や夫婦のゆくすえを案じていたのだろうか――。
 志保は釈迦如来の像を視ていながら、心の軸をくるくると、ほとけの世界とはほど遠い俗世のおもいに駈け巡らせている自分を恥じた。しかし抑えきれなかった。いや、抑えきれぬおもいを、むしろ吐露してしまいたい衝動にますます駈られてゆくようであった。
 そうか、あの時に案じたのは、家族のことなんかじゃない。胸の裡をたえず往き来したのは、そんな冷静さとはかけ離れた、もっと残酷ななにかだった。こちらが傷ついただけ、相手も傷つけばよい、というような。しかし長年の愛弟子で、しかも高階宗元の遠縁にあたる季実を疎んじるというのは、捨てばちな行為以上に埋もれたものがある。それを探りあてねば、自分が先に進めない気がした。
 あるいは、瀬島との過去の日々への愛着のためだろうか。
 志保はあらためて自問したが、答えは得られなかった。ただあの日の悔しさだけがいくども甦った。この屈辱感からだけは逃れたい。いつまでまとわりつくのか。志保は想い出しては苦しみ、喘いだ。
志保は関守石を元の位置に直し、茶庭をわざとゆっくり歩いて、待合に戻ってきたのだった。すると並んで円座に腰掛け、亭主の打つ銅鐸の音をつつしんで待っているはずの弟子たちの姿が見あたらなかった。茶室の中から賑やかな声がした。客をつとめるはずの弟子たちが床の掛物を巻きあげ、花入れを床の中釘に掛け、香をたき、水指を定座に置くなど、ほんらい亭主がやるべき作法を季実にかわってやっているのだった。志保は愕然と立ちすくんだ。これは季実の指図なのだろうか。それとも亭主がいっこうに銅鐸を打つようすがないし、先生も待合から座を外してしまったので、弟子たちが勝手に、稽古のつもりでやっているのだろうか。志保はなるべく好意的に解釈しようとした。しかし自分だけがとり残されたおもいだけは消えなかった。茶室の中からは、若い、華やいだ嬌声がきゃっ、きゃっと聞こえてくる。こんなんでええの。オーケーよ。先生におこられへんかな。だいじょうぶ、だいじょうぶ、最近、大分とやさしならはったもん。どっと笑い声が起こる。志保は何もかものみこめた、とおもった。
 しかしのみこめないのは自分の気持ちだった。利休は、心の塵をなどちらすらん、と言う。
しかし砂塵は心に舞いたち、砂塵を漲らせる曠野が躯のすみずみに蔓延はびこっていく感じであった。季実にたいする烈しい敵愾心と弟子たちへの失望感にもおそわれた。その一方でもっと早くから夫と季実との関係に気づいて、穏当な手を打てなかった自分の迂闊さが疼いていた。白露地に心を鎮め、朝夕の風姿に気の持ちようをおしえている自分を、弟子たちは何と視ていたのであろう。形骸ばかりを習いながら、心をよそに移していたのだろうか。志保はそんな若い弟子たちを心の中で赦した。季実をも赦そうとつとめた。だが何かが遺った。
 いらい、自分の裡から、気魄のうすれるやりきれなさを感じ続けた。稽古に執くと、弟子たちは、かたちばかりの巧拙を競い合う。それを諌めて実境涯としての平常心を説くのだが、自分の心が揺れるのを留めようがなかった。若い弟子たちには気づかれはしまいが、志保は空ろな自分を透して、その向こうに弟子たちの、茶の境地にはほど遠いまでも何物にも動じない生きざまを視ていた。
 あの日は驚いたことに、床には沈丁花が活けられていた。この花は匂いがきつく、わび茶では禁花になっている。それを季実が知らぬはずもあるまいに、とおもいつつも、志保は気づかぬふりをしていた。
たった一輪ではないか、しかも作法どおりの活け方なのだし、正式の茶事ではないのだから、と自分に言い聞かせた。だが鼻を刺す匂いはせまい方丈の隅々にまでひろがっていった。匂いの中で床の拝見から濃茶、後炭、薄茶の点前をおしえた。匂いは鼻にまとわりつく。季実さん、『立花秘伝書』 によると、沈丁花の匂いは諸病の毒とさえ言われているのですよ、と喉許まで出かかっても抑え、つとめて平静を装っておしえ続けた。おしえながら、こちらのおもいを感づいているのかと弟子たちの目の表情を一人一人窺ったが、いつもとかわるところがなかった。季実は釜の前に正座し、湯を汲んでは茶碗に淹れる。柄杓を釜に置く手の指が、うす明かりの中に、細く、白く反りかえり、うぶ毛がういういしくみえた。季実の茶を正客の志保がうけ、一啜りする。季実は亭主らしく、服加減をたずねた。そんなことより、沈丁花をかえなさい、とまた喉許まで出かかったが、まことに結構でございます、と志保はこたえた。茶を啜る時、沈丁花の匂いはひときわ鼻をついた。そこに志保は、季実の心と、季実や友禅を着て居並ぶ弟子たちのもつ、むせかえるような若い肉を視ていた――。
 ふと気づくと嬌声は鳴りやんでいた。堂内の冷気もいとわず、じっと待っていてくれた老人に礼をいい、金堂の外に出た。陽はやや高く、梢もそれを歓んでうけているかにみえたが、外気はいちだんと厳しさを増していた。寒い。金堂を案内してくれた老人は錠前をかけるのにひどく手間取っている。指をおもうように動かせないらしい。この先、あの不自由な躯で私だけのためにお堂めぐりをしてくれるのだろうか。そうおもうと気の毒になった。
「案内のほうはどうぞご心配なく。わたくし一人で……」志保は老人の背に向かって声を掛けた。
「もうええんですか」 老人は振り向いて目をしょぼつかせた。
「弥勒堂や潅頂堂は……」「ありがとうございます。でも大体存じ上げておりますからひとりでも……」
「そうでっか」 拍子抜けしたようすだった。「せやけど鍵掛かってて、見られしませんよ」
 たしかにそうだ。しかし志保は内部は拝見できなくていい、と答えた。弥勒菩薩や潅頂堂内陣の厨子に籠められた仏師工人の心気に感じ入った昔日の自分には戻れそうになかった。
金堂の仏像を観ても、心はうわすべりしていた。それを恥ともおもわず、あの暗がりで仏像に対していたのだ。これではもう仏像を拝する資格すらないようであった。
「せっかく来はったんやから、ほかのお堂のほとけはんも拝んでいかはったらええのに」
 老人は言いながら堂の石段を降りてくる。志保は深く一礼して歩き出した。弥勒堂を左に、五重塔へと歩く。だが足どりはおもかった。奥の院への急峻な参道へと目を上げると、そこに若い瀬島が立っている気配を感じた。雲水姿の瀬島がほほえみかけてくる。志保は目を足許におとした。そのまま、一切を放下してあてどない旅をわがものとする心境に至れない自分を見据えながら歩いた。塵埃を払いきれないのに、いたずらに他者の欠所ばかり目につく。いままで夫をこんな傲慢な目で視ていたのか。瀬島が茶会があるというので、久びさに二人で茶室に入り、薄茶点前をするのを見てやった折もそうだった。あの時見抜いた夫の動揺ぶりは、もしかしたら自分の心そのものだったのかもしれない――。
 潅頂堂への石段を登る。茶筅通しをする夫が潅頂堂の中にいる気がした。着流し姿の青年だった。板敷の堂の片隅に独り正座し、柄杓をとりあげ、……そうか、わたしは夫の帛紗捌ふくささばきを視ていた。自分はほほえんでいた。夫への疑念が笑いになって唇を歪めていた。
 茶筅ちゃせん通しのさい、柄が茶碗の縁に触れて、しじまのうちに音をたてる。その音に翳りがあってはならない。ところが夫の茶筅通しのさいには、幽かな濁りがちらっと覗けた。以前の夫なら少々の作法にはこだわりなくやってのけ、そのくったくなさがかえって清涼感を辺りに漂わせて好もしかった。しかしこの濁りはどうしたことか。ためらいがあるのか。あるとすれば何にたいするためらいか。そういえば、さっき建水けんすいに湯を捨てる手許が顫えていた。
 志保は夫の手を目で追い続けた。しかし茶杓を拭く左手にも帛紗をはらう右手にも、ためらいは感じられなかった。茶筅通しに濁りがあるとみたのは、多分こちらのおもいすごしだつたのだろう。あるいは自分の心のゆらぎを夫の動作に映して、それを追いかけていたのかもしれない――。
 潅頂堂のわきに出た。が、志保は立ち止まった。内部は閑まりかえり、誰一人いないのは明らかであったが、耳を澄まして衣擦れの音を探った。
「どないしはるつもりです」
 遠くから声がする。振りかえるとさっきの老人だった。怪訝な目つきでこちらを窺う。
「やっぱり、潅頂堂も観ていきなはれ」
 老人はおぼつかない足どりで堂に上がり、手にした鍵を錠前に差し入れて、ごろりと桟唐戸さんからどをひらいた。さあ、どうぞ、と手招きをする。皺紙のような手の甲は大小の斑点を浮かせていた。板戸を片手で押さえ、しきりにはいれと頷いてみせる。そこひを病んでいるのか、老いた眼は潤んでいるが、その表情の和みに志保は惹かれた。
 堂内は暗い。両脇の連子窓から仄かな明かりが漏れてくるが、懐中電燈を頼りに入った。外陣に立つと、頭上から闇がのしかかってくる。ほら穴に幽閉されるようだ。折上天井おりあげてんじょうがあるともおもえない。闇は容赦なく垂れかかり、その重さに志保は身をすくめた。
 目を凝らすと光のとどくあたり、内陣の須弥壇が黒々とみえた。厨子の飾金具が光った。この厨子を目にするのは、と遠い記憶がろうそくの炎のようにゆらめいた。奥の院へ向かう参道で瀬島と初めて逢った日も、わたしは独りここに来ていた。自分の人生を大きくかえてしまう出逢いがその直後に待ち受けているとも知らずに、わたしは黒漆塗の厨子におさめられた裸身しらきの観音坐像に見とれていた。金箔押の肌が剥げて、くすんだ素木のようにみえるのを、いたいたしいおもいで拝んだ憶えがある。しかし立て膝の右足に右肘を置き、その手で頬杖をついている姿がなまめかしかった。肌の色艶が剥落しても、官能の美は遺せるものなのか。あの仄暗い台坐から、いったい何人の若い僧を魅了して語りかけたことだろう。
 志保は追憶の糸を手繰ることで、瀬島との出逢いの時をすぐ近くまで引き寄せた。しかし世俗に生きたわが身が、肉において、もはや眼前の超俗の身にとてもおよばなくなっている想念から脱け出すことはできなかった。二十数年前、夫とここで初めて出逢った日も、ひどく凛冽な寒気に被われた日だった。この堂を出ると小雪が舞いはじめ、曇り空に懸崖造けんがいづくりの金堂や素木の弥勒堂が老杉を背に鬱鬱と閑まりかえっていた。どれもやさしい堂影だった。
小雪がやむと霧が出た。おそらく谿から山の斜面を這い昇ってきたものであろう。奥の院へと続く桟道をいく重にも層を成して昇っていく。その彼方に瀬島はいた。ひどく面窶れしてなにかに憑かれたふうで、桟道の崖っぷちにしがみつくように根をはる鉾杉の巨木の蔭で、視線を枝越しに遠くのほうヘ役げていた。里の家並みでも視ているのだろうか。いや、仏陀の世界をおもい描いているのかもしれない。もしや仏門に入る気では。加行百ヵ日を経て護摩の秘法を修め、三摩耶戒をさずかる。あの青年はたった今潅頂入壇の儀式をすませたばかりの苦行僧のようだ。若い瀬島の横顔は眩しくさえみえた。おそらくこの潅頂堂の印象が深かったせいであろう。
 志保の目は右肩を脱ぎ乳房を両方とも半ば以上露にした観音像にとられ、その像に重ねて二十歳そこそこの痩躯の青年瀬島を彷彿していた。寂滅の境地さえ漂わせているとおもえた青年はたしかに人生への妄執にも似た思惑をこけた頬に刻み込んでいた。不憫でさえあった。屈折した心理が見えかくれし、せめてそれが和むまでと、わたしは心をひらいたつもりだったのだが――。
 老人は訥々と説明を続けている。堂内は響く声を孕んで、僧形をいくつも生んだ。しかし瀬島が茶を点てている姿はどこにもなかった。いや風炉はなくてもよい。
あれから何年も瀬島が回し続けた轆轤のまわる音さえ聞ければ、と耳を欹てたが、床のきしむ音さえなかった。雲水は堂から追放され、石段をころがり、凍土に墜とされたのか。それでも戸を敲けばよいものを、なぜ脇道に逸れてしまったのか。なぜいつまでも世臭を濯いおとすことを考えないのか。堺の南、丈六寺の仮寓ではじめた二十年前の生活はけっして自堕落な男女のむつみの世界ではなかったはずだ。
 志保は観音坐像の前でくずおれていくわが身を支えるのにやっとのおもいでいた。老人はそれに気づいたのか、そろそろ次へまわりましょうかと声をかけてくる。
 潅頂堂を出たところで、やはり奥の院まで足を伸ばされるおつもりか、と訊かれた。その気は半ばしたが、独りになりたくて志保は、はい、と答えた。
「途中、道が長いさかい、躯が冷えますよ、いったん庫裡に戻らはって、熱いお茶でも呑んでいかはったらどないです」
「ありがとうございます。でも、わたし一人のために……」
「そやかて、奥さんにはそないしてもらえて、御前さまから言われてますもんで」
「はあ?」
「瀬島先生の奥さんでっしゃろ、おたくはん」
 志保は驚いて老人の目を視た。相手は目を細めて笑っている。はじめから存じあげていたのですよ、と言わんばかりだ。おそらく高階先生からの電話を受けてすぐ、入口で待っていたのであろうが、出会った時に問いかけてこないのはどういう意図からなのか。たんなる悪ふざけともおもえない。老人は人をかついだ満足感に酔って悦に入ったふうで笑っているが、志保は解せぬものを感じて顔をこわばらせた。高階から何を聞いたのかが気になったが、どうせ訊いても事実はこたえてくれまい。ただ目の前にいる人の良さそうな老人が何をか知ってい、それをたえずおもい浮かべながら、こちらに対していたことだけは、どうやら否めぬことのようであった。とはいえ、夫のことを、なぜ先生などと呼ぶのであろうか。ただの商人でも、商う物が物だけに、偉い人間のようにみえるのだろうか。
「瀬島をご存じなのですか」
「そりゃもう。あのかたは大した陶芸家の先生やとうけたまわってます」高階は瀬島をどんなふうに紹介したのであろう。
「お逢いにならはったこともあるんですか」
「何度も寺に来はりますよ、奥さん、知らはらへんでしたか」
 老人はまた目許で笑った。志保が、それはちっとも知らなかった、とは言いかねていると、老人は真顔に戻った。
「奥さん、瀬島先生はね、作品ができ上がると、持って来はるんですわ。そんなにしょっちゅうやあらしまへん。せやけど、たまに持って来はると、ほんま、見事なもんで、御前さまは当代随一やとお誉めになるし、わしらもええ目の保養をさせてもろてます」「作品をつくって、ですか。瀬島が?」志保の問いに、老人は大きく肯いた。
 それはきっと他人の作品のことなのであろう。ひとの作品を自分で焼いたなどと吹聴しているのでなければ、窯元にたのんで自分のデザインで焼かせ、銘まで入れて持ち込んでいるのだ。いかにも瀬島らしい、と志保はおもった。そうとも知らず、瀬島を崇めてくれるとは。志保は寺の人たちにひどくもうし訳ない気がした。
「作品はあんまり自宅に持ち込まんようにしてるって、いつぞや言うてはりましたけど、作ってはることも黙ったはったんですか」
「いつから作り出したんです」
「さあ、もう大分となりますよ。そうですなあ、五、六年前からやて、言うておいででしたけど」
 老人はこちらをまじまじ視つめる。そんなことも知らないとは、いったいこの夫婦はどうなっているんだろう、といった面持ちだ。志保は相手の視線に顔をあからめ、心あたりをさぐってみたが、やはり瀬島は他人に作らせているのだとおもった。
「茶碗やら、染付大皿や壷なんかも、持ち込むんですか」
「いえ、そんな大きなもんは。なにせ作業場が狭うて、まだ大がかりな窯を置けんとか、こぼしとられました」瀬島はどこに窯を据えているのだろう。あの人の口ぶりでは、いかにも作陶を再開したようだが。
 志保はちらりと季実のマンションを想ったが、あんな場所でまさか土練りができるわけはない、と打ち消した。ほかに心あたりはなかった。長年瀬島と暮らしているのに、相手の暮らす世界をあまりにも知らない。向こうからも知らせてこず、こちらも大して関心を持たない。それで平気でいられたすえに、ぬきさしならないところまで、行き着いたのだろう。
 こうおもうと、自分にも考え直さねばならない面がある、もっと相手を理解するように努めねば、という自責の念がこみ上げた。しかし、そのためには、夫と自分との間にできてしまった溝をどうにかしなければならないだろうし、このことには自信が持てなかった。
「とにかく、一度ご覧になったら、どないです。びっくりしはるわ、きっと」
 いいながら、老人は先に立って歩きはじめた。足はおぼつかないが、志保にあとを追わせずにはおかない気迫がその背中に感じられた。
「びっくりしはるわって、そんな小さなものばかりを作っていても、立派なものぞろいなのですか」
 志保は老人に追い縋って、鎧坂の石段を並んで降りながら訊いた。相手ははいと肯いたなりで、どんどん歩く。
「数も多いんですか」
「そうでんなあ……」 老人は足許から視線を挙げて、ちらっと志保を視たが、また下を向いて歩き続けた。「何年もかけてのこっちゃさかい、五つや十とはちがいます」
 そんなにあるのか。とても信じられないおもいだった。まさか他人の作品を持ち込むことはないにしても、やっぱり、自分のデザインで他人につくらせ、焼かせる、というやり方をとっているとしか考えられなかった。今回の九州出張も、仕入れのためとは言ってはいるが、こんな用件も含めてのことなのかもしれない。ということは、これから庫裡に案内され、そこで寺の管長に会見することになって、瀬島先生の作品ということで、つぎつぎと、ほとんど他人の手になるものとしかおもえない作品を観せられることになるわけか。
 こう考えると志保は気おくれを感じて坂の途中で立ち止まってしまった。どないしはったんや、何も遠慮しはることあらしまへん。老人は戻ってきて志保の腕をとった。庫裡までの道を、志保は生まれてはじめて、法廷の回廊を判決をきくために引き連れられてゆく囚人のような気持ちで歩いた。
「瀬島先生の奥さん、お連れしましたでぇ」
 庫裡の三和土で老人が叫ぶと、はあい、と若い女の声が座敷の奥からした。出て来たのは中学生ぐらいの、うす桃色のセーター姿の女の子だった。おじいちゃんがさっきからお待ちかねやわ。えらい時間かかったんやね、と老人に向かって言い、それから志保の気を悪くしたかと気づいて、はっと手でロを押さえ、すんません、とぴょこんと頭を下げた。
管長の孫娘らしいが、明るい感じに志保はほっとした。
 長い廊下を案内されて、いちばん奥の部屋とおぼしき、二間床に違い棚のある座敷に通された。娘はいったん下がってから、茶を持って入ってくる。盆を畳の上に置き、この齢の子にしては珍しく、きちんと真のお辞儀をした。そういえば、襖をあける動作も作法にかなっている。まだぎこちなさはあるが、ういういしく、けれん味のないのに好感が持てた。近頃の街の子で、生半可な気持ちで茶を習いに来る娘たちより、ずっと心が籠っている。そうおもいながら視ていると、ふと幼い日の自分の姿が甦った。そうだ、この子の齢頃だった、わたしが高階宗元先生のもとに通いはじめたのは。あの頃は先生もまだ若かった、三十歳半ばか、それ以前だったろう。紺の結城を着て端座しておられる、その前でわたしはおずおず、おかっぱ頭を下げて、できそこないの真のお辞儀をしたものだった。志保ちゃん、そんなにかとうならんでも、ええよ、と幽かに顫えるわたしの肩口に声を掛けてくれた。稽古のはじめは、しかし、いつも緊張のあまり顫えていた。志保ちゃん、高階先生はどえらい先生なんやで。お家元から、お茶のふる里堺をまかされてはる。
堺はな、昔、千利休という偉いお方がおられて、お茶をひろめはったところや。せやから高階先生は利休さんみたいに偉うならはるかもしれへん。
 高階に逢うたびに、志保は母から言われたこの言葉をおもいだした。中学の頃から成人になり、さらに年を重ねて、やがて代稽古をみられる年頃になっても、高階への畏敬の念はかわるところがなかった――。
「あなた、おいくつ?」 志保は女の子に訊いた。
「十五歳です」
「そう。お辞儀もちゃんとでけて……」
「あきませんのです。まだ背中のほうがしゃんとしてない言うて、先生に今でもおこられるんです」
「先生って?」
「宗元先生です。あら先生、わたしのこと、言うたはらしませんでしたか。今度志保先生に逢うたら、幼い頃の志保先生によう似た二世が弟子入りした、おちゃめな現代っ子やけど、感じがえらい似とるて、言うといたげるて、この前おっしゃってでしたけど」
 高階邸での夜咄しの茶事では、この子の話は少しも出なかった。先生は瀬島が遅れて来るのを気遣うわたしを却って気の毒がっておられたり、それから瀬島とわたしとの出逢いの頃の話や、さらに遡って、わたしがまだ高校時代の話をなさったが――。
 
 娘は夕布子といった。初めて逢う志保に怖じるようすもなく、濁りのない眼をくりくりさせている。お前みたいなお転婆娘じゃなかったぞ志保先生は、って、言われたこともありますよ。夕布子は白い歯をみせて笑った。
 高階先生はこのくったくなさに釣られて、ついわたしに逢うたらお前のことを言う、などと言われたのであろう。きのうの話題からすれば、この子のことが出ても不自然ではなかったのに。
 しかし、おもえば妙な話である。高階は室生に引き籠っていらい、弟子をとることはしなくなっていた。いちどその訳を訊いたことがあったが、納得のゆく返事はもらえなかった。それがいま、どうして夕布子だけを弟子として認めたのだろうか。そうか、管長に頼まれて、断りきれなかったのだろう。
 志保は活発な夕布子に、自分の子供時代にはなかった、のびのびした息吹きを感じ、それを快くおもいながら話を続けた。なるほど、うんうんと肯く時に、顎のあたりがしゃくれて、びんの毛がわずかに頬にかかる感じがどことなく幼い日の自分に似ている。しかし気性はあくまで明るい。いつもおずおずと退嬰的なところをみせていた自分とは正反対とも言えるくらいだ。話しながら志保は夕布子のうちに自分の俤があることを否定し続けた。管長の下村道雪が入ってきたのはその時だった。
「夕布子、お前は下がっていなさい」
「あら、おじいさま、志保先生って、ちょっともこわいことあらへん。宗元先生はね、いちど志保先生におこられるといい、なんておっしゃるもんやさかい、どないにこわい先生かとおもてたんやけど……」
 道雪に追い立てられるようにして席を起った夕布子は、志保せんせ、こんど、ぜひ、お点前おしえてくださいね、と言い遺して出て行った。
下村道雪は高階とは昔からの朋友とは聞かされていたが、年齢は二十歳も上にみえた。喜寿にもとどく感じであった。型どおりの挨拶のあと、高階先生からはよくうかがっております、と礼を尽くす。
 話が瀬島のことに及んだ。はじめてお目にかかりましたのは、高階先生とこのお茶室でおました。志野茶碗があんまりふっくら手になじむもんで、どこで手に入れはったと先生にお訊きしました。そうしたら次客のお方の作やということになって、わたしにも、どうぞ一つ、造っていただけますまいか、とおねだりさせてもろたんが最初でおます。
 言いながら道雪は席を起って、違い棚から茶碗をおろしてきた。志野の練込茶碗であった。施釉がゆたかで、手回し轆轤で厚手に仕上げたあと、素焼きはせずに釉を生掛けにしたらしい跡が不均等な掛かり具合からわかる。このやり方はたしかに瀬島が好んだものだ。しかし陶工に頼んでおきさえすれば、こうした工程はちゃんと踏んでくれるはずだ。
 志保は瀬島自身の手造りになるものとは信じきれないというよりも、信じざるを得ないところへ追い込まれているのに、信じたくない気持ちでいる自分に気づいた。これはおもいもかけぬことであった。
「瀬島先生はとくに志野がお好きのようで」 志保の手の中にある茶碗をほれぼれ視やって道雪は言った。「濃茶には黒茶碗もよいが、これもいい。ひとがどう言おうと、わたしは瀬島先生の志野をつかわせてもうてます」
「ほかにもあるんですか」
 志保がこう問うよりも先に道雪は起って、違い棚からさらに二つの茶碗を持ってきた。一つは鼠志野の化粧文、もう一つは掛け分けの志野茶碗であった。鼠志野のほうは鶴紋が二つ、大胆に描かれている。白い鶴が双翼をひろげ、大空を飛翔しており、その背後には黒い鶴が同じく双翼をそろえて寄り添っている。黒いほうは白い鶴の翳ともみえたが、雌雄あいそろって力強くはばたく姿、と志保にはみえた。この大胆さはどうしたことか。茶筅通しにのぞかせた、あのためらいはどこにもない。瀬島がこのような文様を描けるなどとは考えてもみなかったが、造りぜんたいには、夫独特の練り調子というものがあって、これは否定できなかった。まぎれもなく瀬島自身の手になるものであった。以前にも増して志保の目を捉えたのは、絵付けに躍動感が漲っていることで、飛翔する二匹の鶴は何ものをも寄せつけない威容にあふれていた。しかも夫がかつて好んだ亀甲文や桧垣文とはちがい、生き物にしか求められない、なまめいた風姿がぜんたいを包んでいた。
茶人が好む端反りや高台ぎわの景色に神経をつかったようすもない。志野らしい、背勢に徹した仕上がりであった。
「これはいつ頃の作品ですか」
 志保は手にした茶碗に目をおとしたまま訊いた。
「瀬島先生におねがいして、はじめて頂戴した作品です。五年ほど前ですかな。まだ生き生きと若いですなあ。わたしぐらいの齢になりますと、焼き物を創らはった人のエネルギーに押しのけられるような感じをもつことがちょくちょくあります。その鼠志野には圧倒されました。宗元先生に言うたら、わたしもそうだとおっしゃってでした。瀬島先生は立ち直らはった、長い間の悩みから解放された人だけしか創れんもんを持って来はる、て言うとられたが、そのとおりやとおもいましたよ」
 道雪の言葉はほとんど信じられなかった。あの、脂でぎらぎらした商人の夫とは似ても似つかぬ作家がそこにあった。悩むことなどまったくしない夫を、高階先生はどう視ていたのであろう。わたしのように拙い弟子を母にはきわめて筋のよいセンスをしていると誉めておられた時のように、夫のことも買い被っておられるのか。
 昨夜の高階邸での茶事がまたおもい出された。夫は仕事のせいで、とうとう姿をみせず、結局、夜咄しの茶事を終始宗元と向かい合って行うこととなった時、夫の無責任ぶりを嘆いた志保に、宗元はみょうに庇うようなことを言ったことがおもい当たった。
 志保さん、瀬島さんが姿をみせんのは、何かよんどころない事情があったんでっしゃろし、まあ、そんなことは、よろしいやあらしませんか。たいていのことは赦したげんと、ええ仕事はでけしまへん。
 はあ、とこたえた志保に高階はそれ以上のことは言わなかったが、こちらの腑におちないのを悟すように肯き続ける相手の目がいつになく厳しくおもえたのだった――。
「奥さん、もっと観はりますか。それやったらこっちの部屋に来とくんなはれ」道雪は先に立って歩き出す。志保はふらふら起って、あとに従った。回廊をまわり、客間をいくつも通りすごしたあと、石灯籠や石塔のならぶ中庭を左にしたところで露地におり、腰掛待合のわきを歩いて、貴人口から茶室に入った。飛び石に打ち水をしたようすからみて、これから茶会をはじめる準備かともみられたが、茶室には人影もなく、水屋にもその跡はなかった。
 せんせ、こっちです。さらに奥から道雪の声がかかる。視ると小さなせせらぎを挟んで、新たな別棟があり、ま新しい渡り廊下が掛かっていた。鏡の間から橋掛かりを通り、囃子座に入る能役者になったおもいが一瞬、志保の跫を竦ませた。地謡じうたいは鳴り、居語いがたりは気ままに故事を語り出し、小鼓も大鼓おおかわもしきりに囃すのに、役者はシテなのかワキなのか、間狂言なのかも決しかねて揚げ幕の内で困惑しきっている。そのようすに周りも気づいているのに、お構いなしに舞台に引き出そうとする。居心地のよいのはここよ、鏡の間よ、いえ茶室の小屋にいてこそ、わたしの心は鎮められるのよと叫んでみても、誰もとりあってはくれない。観客が見所より囃し立てる。早く舞台に登れ。なにをためらっているのか。その目でしつかりと長年の疑問と対決すればよいではないか。
「せんせ、どないしはったんです、さあ、この部屋です。瀬島先生の作品が、ほれ、このとおり、ぎっしり一杯ですわ」
 部屋の奥から伝わる声をたよりに、掛け橋へ踏み出していた時には、もう小鼓も大鼓も鳴りやんでいた。囃したてる観客もかき消えていた。あるのはこれから打擲を受ける身の罪人になりきった、志保だけであった。
「まあ、ごゆっくり。わたしはちょっとはずさせていただきましょう」
 道雪が出ていくと、志保は夥しい作品群と否応なしに対峙させられることとなった。六畳の壁面いっぱいに、床ノ間とははんたい側に位置する形で、八段におよぶ棚を設え、それをほぼ埋め尽くさんばかりに、茶碗や鉢がならべられていた。香合や皿もある。織部釉をつかった誰が袖形の向付も明り障子から差し込む鈍い光を受けていた。土と釉薬に工夫をした跡がみられる。もう疑う余地はなかった。どの作品にも瀬島の指が感じられた。自分の肉を求めなくなった夫の指が、まぎれもなく豊饒なものをまさぐり、そこから一つ一つ、艶麗できらびやかなかたちを創り出していた。きたなく、淫靡とおもえた指の腹が、これほどまでに清楚な気品を生むとは信じられぬことだったが、どのかたちにも臈長けた風姿を漂わせていた。
 志保は陶然と酔う自分を視ていた。作品群がわが身を襲い、打擲し続けるかとおもいきや、わが身を打つのは嫋やかな女の指の反りをにぎりしめている男の指であった。痩躯の若者の指はそこにはなかった。あるのは釉彩のなめらかな表をすべる肉づきのよい指であった。しかし志保は澱みのないこの指遣いに、とろとろと微睡むわが身をまかせてよい気さえしていた。
「せんせ、おじいちゃんがねえ」 遠くで声がする。「せんせを裏山にご案内して差し上げるように言うてはる」
 部室に入ってきたのは夕布子だった。
「裏山ですって」
「そうです。瀬島先生のお窯のあるところです」
 なるほど、ここで焼いているのか、と考えた志保に気づいたのか、夕布子は首を振った。
「ここで製作していたわけじゃないのね」
「いま建設中の登窯やわ。斜面にちっちゃな土のお窯が五つつづいて、かわいいですよ」
 ためらう志保を夕布子は解せぬおもいで視つめる。瀬島からは何も聞かされてはいない、ほんとうよ、夕布子ちゃん、わたしがためらうのは当然やないの。あなたもいつかはこんな日が来て堪えねばならないこともあるかもしれないのよ。
 志保は必死に少女の頃の自分に語りかけるようなおもいで夕布子を視た。夕布子のセーターは淡い陽差しを肩口に受けて眩しく燃えたつようであった。唇をちょっとほころばせ、不思議そうな目つきで志保が部屋から出て来るのを待つ。その夕布子に志保は自分の眼差しを重ねることができなかった。夕布子の愛くるしくくびれたおとがいに幼い日の自分を認めた志保だったが、自分をそこに宿すことはひどく情けなくおもえた。瀬島が前を向いてつき進もうとしている舞台に、自分は過ぎ去った日を照らすほか、なすすべを知らないのだった。
 山径を夕布子について歩きながら、志保は瀬島から初めて堕ちてゆくもう一人の自分を視ていた。夫が高みに昇り、自分はそれに辿りつけずにいる。おそらく窯に火を入れ、休みなく薪をくべ続けるのは瀬島と季実だろう。不眠不休の窯焚きを手伝った二十年もの昔の汗がわたしの躯から涸れてしまったのを、今となってはどうすることもできないのだ。
 山径はうねって険しく、奥の院への桟道をおもわせた。夕布子は慣れているのか、軽々と歩をはこぶ。後になり先になりして歩きながらも志保のゆっくりした跫どりをつねに見守っているふうであった。
「せんせ、あのね」 不意に立ちどまって夕布子は振り向いた。「志保先生は高階先生のこと、どないおもてはる」
「どないて」
「うちね、高階先生ったら、志保先生のこと好きちゃうのやろうかて、おもうんですよ。なんでかて、よう志保先生のこと、話しはるもん」
「夕布子ちゃん、そんなこと、あるはずないのよ。若い人たちとは違うのよ」志保は窘めて笑ったが、相手は笑わなかった。
「そやない、昔から好きやったんや。うちかて女やもん、わかりますよ。ちっちゃいときの自分、憶えてはる? 宗元先生はよう憶えてはってね……」
「そんなことだけで決めつけたらおかしいわよ、夕布子ちゃん」志保の言葉に相手ははげしく首を振った。
「きのうの夜咄しの茶事で高階先生、うちのこと、言いはれへなんだでしょう」
「夕布子ちゃんにはわるいけど、何も聞いてないのよ」「そうやとおもうわ。ご自分からは言いにくいもん。せやけど、このお寺の管長さんを訪ねなさいって、勧めはったでしょう」
「ええ、でも出掛けによ、今朝になって」
「でも、おじいちゃんには、前まえからそんなお話があったんやないかとおもうの。今朝電話があった時、おじいちゃんわ
ね、いよいよ来はるんやな、て言うてはった。で、瀬島先生の焼き物を視ていただけばって、お連れしたのやとおもうけど、わたしはそれだけ見せてもあかん、おもうたんです。高階先生のためには」
 窯に誘ったのはどうやら夕布子の一存らしい。
「なんでやの」
「高階先生はね、瀬島先生のこと、志保先生によう知っててもろて、と考えたはったらしいの。おじいちゃんもおんなじや。お互い、尊敬するものがあってこそ、夫婦の仲もうまくゆく、なんて、お考えやな、ておもいます。そやけど、それやったら、何も解決にならへん。うわべだけのごまかしやわ」
「どうしてそんなこと言うの」
「そやかて、高階先生がいつまでも幸せになられへん。志保先生のこと、瀬島先生と仲よういかはったらええとおもってはっても、それはうその心や。ほんまはお二人の幸せを打ち毀してまでも、志保先生を……それがでけへんもんやから、ずっと今日まで見守ってきはったのやとおもいます。せやから、志保先生、もし瀬島先生のこと、おいややったら、別れはって高階先生のとこへ行かはったらええ。うち、志保先生って、どんなお方やろて、ずっと考えてたんです。きっとわかってくれはる、お会いしたらお話して、高階先生のお気持ちをわかってもろうて、なんて考えてたんです。でしゃばりしてかんにんやで、せんせ。うち、まだまだ子供やのに……」
 言いながら夕布子は泣きじゃくりはじめた。志保は無言で夕布子の肩を抱いて歩き続けた。若い頃の自分がもしこの子のように振る舞えたら、あるいは人生も別の道を辿っていたかもしれない。そんなおもいを噛み締めながら、もうかわりえない自分を視ていた。
「夕布子ちゃん、おおきに。よう言うてくれはった」
「ごめんなさい志保先生。せやけど、うち、視て視ぬ振りなんかでけへん。なんでや言うとね、せんせ……」
 藪をぬけると平地になり、梅林が植わっている。膨らんだ蕾が枝いっぱいにつき、いくつか花になっていた。夕布子は枝を避けて縫い進みながら、ここや、せんせ、ここです、と志保の手を引っぱって入った。
 視界がにわかに広がった。梅林の背後は丘陵になり、それを利用した登窯がま新しい土の肌をみせていた。焚きロを築けば、火を入れてみることもできる。
「せんせ、なんでや言うとね」、夕布子は窯の肌を爪で掻いてみせた。「瀬島先生がここに窯づくりに取りかからはってから、何べんも工事を見に来はったけど、いっつもおんなじ女の人が一緒で、楽しそうで、そんなん視てたら、がまんでけへん。その女の人はね、職人さんらが帰らはると、瀬島先生と二人っきりになって、登窯沿いにつくった径をぴょんぴょん駈けあがっていかはる。それからこんなふうに……」
 夕布子は脇径を駈け登り、上から順に窯の中に入ってみせては愉しげに顔を覗かせ、下に立っている志保に手を振る。順々に出ては入り、出ては入りして、かくれんぼに興ずる女児のようにしてみせたが、目は泣き腫らしていた。
瀬島先生はね、もう子供みたいにはしゃいで、一緒になって駈けはるんよ。夕布子は鳴咽を堪えてこう言うと、涙をぼろぼろ頬につたわせた。志保先生、あんな夫を芸術家として尊敬できたとしても、それはうその夫婦やとおもいます。志保先生は何を考えてはったんです。高階先生のお気持ちも汲んであげんと、とは夕布子は言わなかったが、ぐじゃぐじゃになった顔にそのおもいは出ていた。
 夕布子ちゃん、ありがとう。もういいのよ。それで十分。あなたのおもいやりは嬉しいわ。でもこれは、あなたの考えどおりに運ぶことではないのよ。夕布子の姿を目で追っていると、不意に涙が溢れた。のびやかな少女が流れて窯の焚き口で立ち働く季実や土をひねる前かがみの季実が幾重にも眼前に浮かび出ては消えた。瀬島もあらゆるところにいた。季実の前にも轆轤の前にも、焚き口で働く季実のそばにも。もはや茶室の風炉の前に端坐してはいなかった。窯焚きに汗を流し、季実と顔を視合わせて笑い 視つめあい 頬摺りをする。志保へ視線を役げることはなかった。志保は涙でつくられた幻想の中に自分を置き、その情態で出発点を視定めようとおもった。
 庫裡を辞し、ふたたび鎧坂を登って奥の院に向かう。また雪が舞いはじめた。低く垂れ籠めた雲が堂影を押し包んでゆく。案内の老人が坂の登りロまで見送ってくれたが、今はもうひとりだった。鉾杉の老木がたかい。その根もとに残った斑雪に目をおとして歩くと、いつか礦野へと迷い出る気がした。めざす巨樹を求めたが、急峻な石段の背後に隠れていた。一段、一段、踏みしめて登る。遥かむこうにつづらおりの桟道が覗ける。古木が林立し その中にひときわ高く聳える鉾杉の尖端が視界に入った。ふた昔まえ、あの樹の翳に若い瀬島が佇んでいたのだ。
いたいけないほど面窶れした若者が――。
 一歩、一歩と登るにつれ視界がひろがる。雪はやんでいた。雲間から陽が差し込み、古木たちの幹をあたため、地面に幾条もの影を引いてみせた。樹皮にかかった雪がとけて小さな光の粒となり、斜光を受けていっせいに耀かがやく。石段を登りきると、巨樹がその全身を現した。二十年前も今もかわりがない。微小な人間の蠢きを視守って、これからも何百年と生き続けるのであろう。太い幹にも大枝にも、ためらいのない生が感じられる。志保はしばらく脚をとめてその姿を眺めた。
ふと幹のむこう、根元のほうで動く影をみとめた。まさか瀬島では。視据えるとまた影が動いた。人影は地面の斑雪はだらゆきの上で一つだけにおもえたが、二つに離れた。背のたかいほうが参道に出た。瀬島だった。志保は一瞬わが身を大木の翳に隠すことを考えたが、躯がうごかなかった。気づかれてしまった。瀬島も驚いたようすだったが、木蔭にいる連れにむかって何か声をかけると、こちらにむきなおり、しきりに手を振る。にこやかな顔だ。夫がこれほどまでに晴々した表情をしているのに、ここ何年らい接したことがなかった。やがてもう一人もおずおずと姿をみせ、戸惑いながらもこちらをむいて頭を下げた。季実であった。志保はいずれにもほほえみかえしていた。谿から吹き上げる風が粉雪を巻き込んで小さなつむじ風となり、志保の跫許で陽をうけて舞っていた。 (了)