近作詠草8 令和元年七月六日 (No.1932)
   以下、すべて7の本歌と。 濱野成秋
 
 
今やデスクにも背かれるや? なんの。
幾年をこの書き机に背ぐくまる
  そはいたずらが死を問ふや
 
想いの糸をそっと捨てたり
この作を時に郷土に植えたしと
  読み直す目に田んぼの白鷺
 
子も孫も先祖になんかまるで関心なし
失ひし古アルバムは哀しけれ
  母の手父の指いま亡きがゆえ 慟哭
 
郷里にある西除川に筆の罪なし
西除にしよけの粘土無心に採りゐたる
  幼な指に罪なき土筆つくしが    成秋
歌人前田夕暮の歌集「虹」(昭和三年)にて
水あかり顔に受けつつ川底の
  砂礫すくひゐる人さむげなり  夕暮
 
と夕暮が詠みたるに、吾、小粋にかく歌ひをり
冬の川渡る舟人舵を絶へ
  雪見炬燵もまたたのしけれ    成秋
 
前田夕暮は同じ歌集で
野さらしの風日を吹きてうら寒し
  われは露佛ろぶつに物申したき    夕暮
 
と詠んだので、吾は、水子と称して天に戻さる常習を
重ね石戻さる嬰児ちごのはかなきに
  涙す母子も百年ももとせ経ちゐて    成秋
と詠む。野仏を見舞ひて、産婆のいふ「上げますか戻しますか?」とは何。
「上げる」とは赤子を生かして育てること。「戻す」とは天に召されよと、
産婆が暗闇に出て間引く。
 かほどに辛きこと、我が国では常習にて、現今の教科書には記載なく、
人はたまたま川辺の片隅に積まれし水子供養の重ね石が何かも知らず
踏みつけて通る。
 
 この貧しさは昭和二十年八月十五日の終戦の、その日の後も続いていた。
二・二六事件の反乱部隊に参加した将兵の多くは貧農の出で、どんぞこの
暮らしをよそに、勝手気ままに政治を執る上部への怒りと鬱屈を持っていた。
かくして起こった哀しい背景を知らぬ素振りの歴史家は、これを軽視し、
唯、隊内における皇道派が粛清され統制派が実権を握ったと記すのみ。
これは史実を歪める乱暴な記録であり、歴史家の歴史家たる使命を知らぬ
所業とさえいえる。
 ところで筆者は二〇〇一年一月一日に発刊した小説『父の宿』の冒頭に
自作短歌を三首掲載している。父の人生は私にとって大きな謎であるが、
それを想うだに、六月三十日の末期の水は辛く、窶れ果てた父を読んだ
最初の歌の、「泣き」は「鳴き」にあらず。わが心の嗚咽にて。
 
かりそめの宿を想ひて病む父の
  鬢にしんしんしぎ泣きわた
 
道頓の父が語りし屋形船
  清談したかや女子おなごもいたかや
 
故郷ふるさとの河内太鼓は哀しかり
  みちゆく人の皆変りゐて
 
 
                     (No.1932は以上)