浪漫の歌特集⑶
平城山ならやまと志保子の場合
                令和二年六月十五日 (No.1938)
             濱野成秋
 
    行ってみたくなる平城山
 恋歌ほど現地に誘う力を持つものはないだろう。
 荒城の月を聴くと荒れ果てた城跡に行きたくなる。
 遥か昔日を偲んだ歌と知れど、むしょうに脚を踏み入れてみたい。
 理屈じゃない衝動だ、想念ではない幻影の虜だ。
 僕も志保子の心情を胸に抱えて平城山に。
 やまみち坂道土のみち。
      1.
 人恋ふは悲しきものと
 平城山に
 もとほり来つつ
 耐え難かりき
 平凡な言い草に「恋は盲目」という。恋人は自分とは比較にならぬほどの魅力ある人物だから恋病は始末がわるい。
 増してや夫がいるのに別人が心の奥深く忍び入ると、成らぬ恋路の絶望感と自己嫌悪の両方にさいなまれて抜け出せなくなる。
 だから道ならぬ恋はしばしば心中しんじゅうへ。坂田山心中をご存知か。志保子は高名なる歌人である夫が居ながら、なんとその弟子の、自分とは十歳以上も年下の男と恋仲に。実名はちょっと調べるとすぐに出て来るが、そうしないのがいい。
 恋に狂った女はふらふら縁もゆかりもない平城山にさまよい入る。
 だから「もとほり来つつ…」となり、「女人短歌会」を起ち上げた程の女丈夫がふらふらと平城山に。磐之媛が夫である仁徳天皇に思いを馳せた心境に浸れども心は一向に癒えない。
      2.
 いにしえつまに恋ひつつ
 超へしとふ
 平城山の路に
 涙おとしぬ
 古の悲恋を味えば幾何いくばくの心の平安やすらぎを得られるか。ああだめだ、耐え難い。わかる、わかる、だからこの秀歌が生まれた。
 恋は苦しい。果ては悲惨。悲恋はあるが快恋はない。悲歌はあるが楽歌はない。だから悲しい酒の歌は音楽ではない。みだれ髪の歌も音楽ではない。音苦である。ところがしみじみ心を捉えて身をも心をも引き摺って行く、平城山に。
 ロミオとジュリエットの悲恋とどう違うか。
 この二人に罪はない。だが志保子は道ならぬ恋を自分からしでかした、不倫だと解るから自分や夫を知る歌人たちみんなの非難がましい視線を浴びた。だからひとりぼち。孤独に山道に迷い込む。脳裏から消そうとしても襲い掛かる非難ごうごう。抑える涙。だがぐぐっとこみ上げる。涙が、涙が、大粒の涙が、流れるのではない、ぼろっ、ぼろっと落涙する。ロミオにもジュリエットにもそれがない。自分自身の良心への呵責というものがない。だが志保子の恋は罪深い。平城山の土の路に、ぼとぼとと涙の粒を落し続けるのだ…。
 配役代わって晶子を登場させよう。
 こともあろうに、修業中の若い僧に「やは肌の…」の歌を贈るとは何事ぞ。駿河屋のすぐそばの寺の次期住職に。
 鉄南へのラブレターも鉄幹を知ってからそれを詫び、自分は「罪びと」だと言いながら、渋谷の、現今毎日テレビに出る交差点から歩いて3分の「東京新詩社」へ来て、道ならぬ恋で鉄幹の前妻を追い出した。
 恋は盲目か? 暴力か? まあいい、その目でもう一遍、
 名曲「平城山」に耳を欹ててくれ。
 それから星野哲郎さんと僕の会話のある「みだれ髪」を読んでみてくれ。
 気味の悪い、夕鶴に、雪女に、惹き寄せられる男がいたように、道ならぬ恋の果てに平城山に来た歌人北見志保子の気持ちになろうと、吾輩は出かけたのだが、志保子の心をしっかり捉えた気分で、その日は奈良町の飲み屋の奥座敷で歌会となりました。
 
                   (No.1938は以上)