市川郢康(オンライン掲載用)

土くれに母のにおい。土を手にすれば、懐かしい母のにおいがある。空行く雲に幼い日の思い出が生きている。青い空、緑の山並み、澄んだ空、小鳥のさえずり、すべて昔のままで時の隔たりを少しも感じぬ。「ふるさとは近くにありて思うもの」

市川勝也著 随筆『土くれに母のにおい』より

父母はかくして知り合い私の人生が生まれた

アメリカ文学を専門とする私がこの世に誕生したのも、父母の運命的な邂逅ゆえのこと。今はもはやこの世にはおらぬ二人だが、人間の運命とはかくも哀愁に満ちているか。

大正11年、母はお茶の産地で有名な福岡県八女郡星野村(現在八女市星野村)の祖父が経営する旅館の娘として生まれ、そこで育った。当時、大分県の鯛生金山の鉱脈が星野村の山まで伸びており、多くの鉱夫がこの旅館を利用したと聞いている。母の父は旅館から見える山々に杉の木を植林し、木材の取引にも関わっていた。炭鉱の資材課に勤務していた父は坑木として使う木材の買い付けで星野村を訪れ、この旅館に泊まっていて、母の父に見込まれたらしい。星野は良き星の降るところでな。と祖父が言ったかどうか、これは冗談だが、二人を出会わせたのだろう、めでたく結婚となって、生まれたのが私である。

そんなわけで、物心がつくまで、私は星野村の茶畑を駆け巡って育った。いつも母の目がゆきとどき、川遊びをしても母の心と一緒だった。星野川沿いの田んぼにホタルが舞い、蚊帳を吊るした部屋の縁側で祖父が育てた西瓜を井戸水で冷やして食べた。

炭鉱の労働者の生活を父は支える

父の最初の勤務先、明治鉱業の本社は、福岡県戸畑市(現在北九州市戸畑区)にあった。創業者である安川敬一郎は安川電機や九州工業専門学校(現在九州工業大学)の創設者でもあった。採掘労働者は炭住(炭鉱住宅)で生活し、事務系管理職の人々は山の手と呼ばれる社宅に住んでいた。私の家は山の手にあったが、落盤やガス爆発の事故を知らせるサイレンの鳴り響くのをよく耳にした。落盤やガス爆発の事故は頻々として起こった。前途ある責任感の強いヤマ男だった友人の父親がある日突然粉塵で真っ黒な死体で戻るという悲しい出来事。父も泣いた、母も泣いた。坑木で坑道を作る調査で父がヘルメットを被り、トロッコに乗る時には母は無事を祈って見送っている。子は父母の背中を見て育つというが、まさにその日々だった。

母は苦労にめげない人だった。

父の早朝からの出勤と私の通学の裏で家事の傍ら、暇を見つけては日本舞踊、茶道、華道、お琴といった日本伝統芸能を身につけた。周りの暮らしにはいつも同情して手伝いに走る母だったけれども、そんな習い事は、僕をどんな逆境に置かれてもしっかり育てねばと思う気持ちもあったのだろう。母は父にもいつも気づかっていた。疲れ果てて帰宅し、五右衛門風呂から上がって浴衣に着替えた父にお酌する母の手が少し震えている。二人とも疲れている。でも、あの、気づかいよう。私はここでも学んだ。

父の炭鉱の仕事は転勤がつきもので、本社のある戸畑市から筑豊炭田の田川郡赤池町(現在福智町)、飯塚市桂川町へと転々とした。家から一歩外に出ると、終日炭車の走る音、巻き上げ機や排水排気の機械音、選炭場の騒音が絶え間なかった。そして、私が中学2年の初めの頃、石炭産業は不況の時代を迎え、多くの採掘労働者の家族は極貧生活にあえぐ日々を余儀なくされた。

野の花は無心に咲く。廃鉱の瓦礫の脇にも彼岸花が。一句披露すると、

廃鉱の世相をよそに曼珠沙華

炭鉱の町には資源として使えない岩石が、長年にわたって捨て続けられうず高く積まれた山、即ちボタ山があった。学校帰りに化石を探しにボタ山に行くと幼子を背負った母親たちが石炭のかけらを探しに来ていた。生活困窮者がボタ山に立ち入り、石炭を見つけ出し、自分の家の家庭用燃料にするか、業者に売って生活の糧にしていた。石炭産業が最盛期の頃、お盆が来ると炭住の広場に沢山の人が集まって楽しく踊っていたのが小学校時代を炭鉱で過ごした私の脳裏に焼き付いている。炭鉱労働者によって唄われた民謡で、盆踊りの唄として欠かせなかった。ゼンマイ式蓄音機から「月が出た出た、月が出た、ヨイヨイ」と炭坑節の曲が流れた。

北海道の炭鉱の労働者を支える父の姿

父は会社の命を受け北海道へ。北海道の空知川の流域にある炭都赤平市の冬はマイナス20度にもなった。母は中学校まで歩いて通う私の両ポケットの中に茹で卵を入れてくれた。北海道での7年に渡る冬の生活は私にとっては耐えがたいものであった。中学2年生の夏の終わりの頃である。空知郡赤平市でこれまで経験の無い北海道の冬を迎えた時、酔って帰って来た父に「僕は九州に戻る」と言った。

その時、見返した父の瞳は忘れ得ない。怒っているのではない、なんとも言いようのない憂えに満ちていた。疲れてもいよう、仕事のことで頭は一杯だっただろう。それを思えば僕は何と思いやりのない言葉を投げ掛けたのだろう。申し訳なかった、ゆるしてくれ。仏壇に向かい、亡き父の写真を見ると言葉が詰まる。

父は黙っていたが、それが辛くて、僕は自分だけ良ければいい自分を恥じて、もう北海道にいようと思っていたが、父は私の心情を汲んでくれたのだ、中学3年の終わり頃一人久留米へ行くことになった。青函トンネルや新幹線が無い時代、久留米まではまる二日かかった。7年間勤めた北海道の炭鉱も遂には閉山となり、父は東京の明治鉱業本社に移ったが、やがて明治鉱業も解体したためその関連会社に暫く勤め、炭鉱の生活と別れを告げ、大阪へ。

そんなわけで、一家は住居を移動したけれども、父母は自らを見事に律していたことに今はよくわかる。

例えば炭鉱時代、父は気晴らしに囲碁や麻雀に饗しただけではない。弓道や剣道に通じ、弓道は四段、社宅の端の広場に作った練習場で的を目がけて矢を射っていた。その姿は日本人の大和魂を見るかの如く凛々しかった。父は数本の刀剣を所有し、刀の柄の部分に刻まれた銘を見ないで、作風で作者を当てる刀剣会を家で開催した後、庭で縄を竹に巻いて試し切りをする。

幼い私は興味深く見ていた。また、時には家に友人を招き、麻雀に夢中になることもあった。麻雀は夜更けまで行われ、お酒やつまみの準備で立ち回り、夜食を作ってもてなした裏方役の母も立派だった。母は私の寝床の横に座り裁縫をしていたが、麻雀牌をかき混ぜる音が煩くて眠れなかった思い出がある。

退職後は約2年間、父は大阪で私たち家族と居を共にしたが、二家族の同居に一抹の不安を覚えた父は、あっさりと家を売り払い、自分の故郷である九州、母の実家に近い久留米市の郊外に居を構えた。当時、家の廻りは田んぼで広がっており、春になると家のすぐ近くの野山でワラビを摘んで来て、母と山菜料理を楽しんだ。今は田んぼも野山も宅地に整備され、家が建ち並び昔の面影は残っていないのが寂しい。久留米では、母と共にそれぞれの趣味に親しみ、穏やかな人生をおくっていたが、父が周囲の反対を押し切って久留米大学医学部に献体の意思を表明したのもこの頃である。母はその夜、ホルマリン槽に沈んだ遺体を夢見て一晩中眠れなかったと言う。生きること、死ぬること。どちらにも達観する父に母はきっと尊敬の念を抱いていたと思われる。

社会批評家になった父の姿

炭鉱事業は文明の進歩と経済活動のせいで終息したけれども、父の苦労は息子の自分が知っている。父の努力は立派だった。俳句にすると、

懐かしや古書に交じりて亡父の文

父は福祉協議会の職業紹介で、久留米に来て1年半振りに再就職の機会を得た。中小企業の厳しさを肌で感じながらも積年の知識と経験を駆使し、老いの情熱を燃やしていた。ゆとりある勤務の傍ら、「らくがき亭」と名乗り、政治批判をはじめ幅広く文筆活動に取り組み、新聞に投稿を続けた。パイプ煙草を燻らせながら、原稿に向かう父の姿は忘れられない。
新聞の都合で時々、折角の原稿がボツになることがある。

たいていは紙面が確保できないとか、社会が突発的に新たな話題に移るせいだが、書いた方はがっくり。気分が滅入って酒の量が増える時もしばしばだったと母は語っていた。新聞に掲載された記事を切り抜き、スクラップブックが4冊になったら自費出版したいという父の願いは叶わず、私は病床の父の耳元で出版の念願を果たす約束をした。

昭和61年3月、私は研究員として1年間渡米することになった。父と母が大阪国際空港まで見送りに来てくれた。しかし、その日は成田空港が大雪のため閉鎖になり、渡米は二日遅れになった。「成るようにしか成らないよ」と言い残して母と共にそのまま久留米まで帰った父だったが、私にとってこれが最後の父の言葉となった。渡米後2カ月後、父が前立腺肥大部分切除のため国立久留米病院(現在久留米大学付属医療センター)入院。その後の検査で前立腺癌と判明、抗癌剤治療を終えて7月末に退院するも薬の副作用で心臓発作を起こし、再び古賀病院に入院。

生きることは辛苦を負うこと宿命なり。入院1週間後、病院のトイレで倒れ、発見が遅れたため危篤状態に陥った旨の連絡を受け、私は妻と3人の子供を残して、帰国の途につく。母と私は医師の説明を受け、CT検査の結果、左脳の後部半分が遣られていることが判明した。2週間ほど病院に通い、落ち着いた状態を見計らって、私は再びアメリカへ。その後、言語障害と右半身不随の後遺症が残るが、丸山病院(医師で詩人でもある丸山豊が設立)で半年間のリハビリ生活を送り、昭和62年3月、退院。しかし、2カ月後排尿困難なため国立久留米病院へ再入院。検査の結果、前立腺癌の末期で手術は不可能と告げられる。連日、母と私が見守る中、父は酸素吸入器を付けたまま、薄く白眼を開いて悶絶せんばかりに苦しむ。母は私に近くの寿司屋からお寿司を買って来るように頼み、病室で買ってきたお寿司を無理やり食べるよう強要した。母は父の死を目前にして強い心を持つことを私に伝えたかったようだ。この時初めて女としての母の強さを感じた。1カ月後の6月早朝容態が急変し、69歳で永眠。

献体の登録がなされていた久留米大学附属病院の許可を得て、遺体を家に運び入れ、通夜を済ませ、葬儀も父が6年間余生を楽しんだ家で行った。1年後、大学病院から戻った一部の遺骨は市川家の墓がある北九州市門司まで運ばれた。墓地は森に囲まれた小高い丘の上にあって、門司の街や港が一望できた。父方の祖父は門鉄(門司鉄道局)の機関士として働き、父は下に5人の弟と妹、上に1人の姉のいる貧しい家庭の中で育った。父は市立門司商業学校(現在福岡県立門司大翔館高等学校)を卒業後、明治鉱業株式会社に入社し、働きながら八幡大学(現在九州国際大学)の2部に通った。父の生まれ育った家は私が幼い頃売却され、一度も訪れたことは無い。

独りで生活するようになった65歳の母は、華道や茶道のお弟子さんを家に招き、指導に心を燃やした。常に凛々しい姿勢を保っていた母だったが、長期にわたる父の介護で腰の曲がりも酷くなっていった。3歳上の母の姉が時々星野村から訪ねて来て泊まり、母と一緒に過ごすのが何よりの楽しみだったようだ。しかし、母が70歳を迎えた頃から、独り暮らしの母のことが気がかりで常に頭に過り母の傍に寄り添いたいと思いが増すばかりであった。私は長い京都での生活から離れて母と共に過ごすことを心に決め、妻と3人の子供を残して友人の紹介で久留米大学に移る機会に恵まれた。

生まれて初めての二人での母との生活が始まる。華道と茶道に専念する70歳代の母はお弟子さんを相手にして生き生きとしていた。人にはそれぞれ人生がある。軽重の差異などない。どの人生も重い。書き終えた今、そう思えてならない。(了)

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