東京女子大名誉教授 佐藤 宏子

1.「至高のひと時」とは?

頂いたテーマは「忘れ難い思い出」、あるいは「人生における至高のひと時」。いくつかの出来事が頭に浮かびました。白夜のアラスカの無人の荒野でアルプスより険しい山々に取り囲まれて感じた無に等しい人間の存在の認識。言葉で恋に落ち、自分の中にその言葉に応じる言葉が生まれたときの驚きと喜び。このようなことは人に語るべきことではないでしょう。あるいは「至福の時」は、ドイツの作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーの 美しい小品 “Selige Stunde”が歌うように、憂いに満ちた外の世界を忘れ、愛する人の腕の中で感じるものなのかも知れません。

このようなロマンティックな一時ではありませんが、九十年近く生きてきますと、思いがけない時に、静かな喜びを感じる瞬間に出合うことがあります。記憶の中に、これまでの自分の生き方や物の見方を納得させられる出会い、経験、社会事象が蘇る瞬間です。

2.小石川と私

現在、私は文京区千石というところに住んでいますがこの土地に地縁も血縁もありません。ただ、今から八十年前、1940年12月から1945年3月まで四年余り「小石川区西丸町35番地」というところに住んでいました。現在の文京区千石です。現在ここには、かつての駕籠町、西丸町、丸山町を偲ばせるものは殆ど残っていません。空襲を生き延びた大銀杏の古木が一本、大企業の社長の邸宅だったチューダー朝風の邸宅が天理教の教会になっているくらいです。

白山通りを挟んで超高級住宅が並ぶ大和郷があり、財閥や爵位をもった人たちに邸宅が並んでいる一方で、まるで江戸時代のような提灯屋、組紐の職人の工房があり、寿々本の寄席があり、肉屋も魚屋もお屋敷向けと庶民向けの二軒が並び、高級食材店と西丸町市場が向かい合っていました。窪地には「貧民窟」と言われた長屋さえありました。日本社会の階層の縮図を目の当たりにしての日々の暮らしでした。

2010年の春、知人がこの地に高齢者向けの集合住宅を建てたという知らせがありましたので、見せていただくことにしました。65年間世田谷の代沢という地域で一戸建ての住宅に住んでいましたが、縁者をすべて見送って一人になると、それほど広くはない庭の手入れすら八十歳近い身には負担に感じられ、老後の生活形態を考えるようにはなっていました。

その新築の集合住宅は、魅力のない建物でした。高齢者向きの設備は整っていましたが、建築デザインなどには殆ど配慮がない建造物でした。まだ、入居が始まっていない時でしたので、種類、サイズの異なる部屋を見せていただき、「さて、そろそろ口実を見つけて退散しよう」と思っていた時、最上階に案内されました。

北西向きの部屋には、室内と同じくらいの広さのヴェランダがついていました。巣鴨から池袋までの低層の住宅群が眼下に広がり、さらにそのかなたに埼玉あたりまでの広い空。その時、思わず「ここだったら住んでもいいわ」と言っていました。それから八か月後、そこが私の居住地になり、現在もそこで暮らしています。

何故、その時にここに住もうと思ったのかは、自分でも説明がつきませんが、眼下に広がる黒っぽい低層住宅の屋根が連なった景色に、1945年4月13日の山の手空襲で焼け野原になったこの辺りの光景が重なったのかも知れないと感じています。

3.明化小学校

1941年1月、私は明化小学校の一年生に編入しました。銀行員だった父の転勤にともなっての愛媛県松山市からの転校です。その年の12月には日米開戦ですから、教室で落ち着いて授業を受けたという記憶はあまりありません。先生方は生徒たちの給食の食材の手配、安全の確保、防火体制の整備など、授業どころではなかったのではないかと思います。本を読むのが好きだった私はしばしば先生に頼まれて、授業の埋め合わせに読んだ本のお話をしていました。「オサトちゃんのお話」として結構人気がありました。最後の「お話」は五年生の一学期の終わりころ、少彦名命が稗だか粟だかの茎をばねにしてぴょんと飛ぶことを話している最中に、慌ただしく先生が教室に戻ってこられ、授業は今日で終わり、宮城県鳴子温泉への集団疎開が決まったことを告げられた時でした。

小学校時代、大泉学園にあった学校の農園でのお薯作りなど楽しかったこととともに嫌だったこともいくつかありました。その一つが御真影礼拝でした。講堂の壁に天皇、皇后の写真が掲げられていて、普段は襞のある繻子のカーテンのようなものに覆われているのですが、天長節、明治節、紀元節などの式典のおりには、そのカーテンの紐をひいて開く役目を命じられ、お辞儀の練習などをさせられるのが嫌でした。何故兵隊さんたちはこの人のために死ななくてはならないの、というのが子供の素朴な疑問でした。それは、今も変わっていません。

戦争との関った記憶として忘れられないことが二つあります。一つは強制疎開と称する家屋の取り壊しです。現在の千川通りに面した家屋を空襲での延焼を防ぐという理由で取り払う作業で、小学校の四年以上が動員されました。大人が綱を掛けて引き倒した家の木材を小学生が仕分けし、女性たちが馬車で積むという作業です。釘を踏み抜いて怪我をする同級生が沢山いました。労力の浪費を実感する空しい作業でした。

四年生の秋だったように記憶しますが、生徒全員が講堂に集められました。交換船でアメリカから帰国された方のお話を聞くためです。三人の中年の男性が講師でした。最初の二人の方は、日本の勝利を確信しているような威勢の良いお話でしたが、三番目の方がこう言われました。「坊ちゃん、お嬢ちゃん、よくきいてください。アメリカも本気で戦っているのです。」その方は、いかにアメリカの人たちが、戦時下で物資を節約し、戦費を捻出しているかを話されました。赤鬼、青鬼としてポスターに描かれているのとは違う人間としてのアメリカ人を子供心に認識した瞬間でした。

4.東京大空襲

不謹慎なことですが、東京大空襲は、見たこともない美しい空として記憶にとどまっています。空襲警報が発令され防空壕に入るよう両親に促されましたが、眠くてまた布団にもぐったことを記憶しています。再度起こされたのですが、両親は私を防空壕に連れていくのを諦め、私が窓にしがみついて空を眺めるのを咎めませんでした。真夜中というのに空は美しい青、空一面には無数の赤いキラキラ光るものが舞っていました。焼夷弾に使われていた金属箔が炎を受けて輝いていたのだと後で知りましたが、決して忘れることのできない光景です。後にニューヨークの近代美術館で倉俣史朗さんのデザインした透明なアクリルの中に沢山の赤い薔薇の造花を浮かべた椅子を見た時、彼にインスピレーションを与えたものの一つが九歳の時に見た東京大空襲の日の空だったと知って妙に納得したことを覚えています。以来、戦争の記憶が他人に語り継げるものかどうかという疑問を抱くようになりました。

5.Oちゃんのこと

Oちゃんは二年下でした。彼女と仲良しになったきっかけは覚えていませんが、週一度のお琴のお稽古に通っていた先生のお宅が丸山町の彼女の家の近くだったので、行きかえりにいつの間にか仲良くなったのだと思います。末っ子だった私は、妹ができたような気持ちでした。最後に会ったのは、1944年の夏、明化小学校の集団疎開に加わって出発するのを学校の前で見送った時です。海軍の佐官だった彼女の父君は敗戦の時、大本営の報道部長だったと思います。

私は香川県の父方の祖母のもとに疎開していましたので、東京に戻ったのは1945年の暮れ、小石川の家は4月13日の空襲で焼失し、両親と兄が移っていた世田谷の家が新しい住まいになりました。それでも六年生だった私が明化小学校を卒業したいと言い張った理由の一つはまたOちゃんに会えると思っていたことでした。

学校が始まる前日、兄からOちゃん一家の死を伝えられました。敗戦から数日後、彼女は父君の部下に連れられて皆より早く帰京したそうですが、帰宅した夜、彼女と弟さんは毒で、ご両親は日本刀での最後だったとのことでした。彼女の家は間もなく取り壊されて、地主だった隣の家の庭に取り込まれ、現在何の痕跡はありません。戦争の本当の責任者は誰?という問いは、今も私の心離れることはありません。

6.終わりに

戦時下の子供時代の数年の記憶が、なぜ重い意味をもっているのかと不思議に思われるかも知れませんが、それから現在まで、日本の国の歩み、政治、社会の在り方に疑問を投げかけてきた「へそ曲がり」の自分の生きてきた道を振り返ると、小石川で過ごした子供時代の記憶の持つ力の大きさを改めて認識させられるのです。