本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

3.「知」は活性化してこそ価値をもつ

⑴知識人に取り囲まれて

鈴木教授は他の教授と大分かけはなれた存在だった。

“歩く知識の宝庫”というべきか。

授業で先生はこんなことまで知っているかと舌を巻いた私だったが、彼の知識の源泉に注目すると、慶應義塾にはその種の知識の宝庫が沢山おられた。授業中、なぜすぐにポンポンと知識が迸り出るのか。その頭脳構造に舌を巻く前に、僕は知識取り出しのプロセスに興味をもった。級友の中には自分らとは頭の出来が違うんだと追いつけない悔しさを生まれながらの優劣問題として片付けてしまう傾向もあった。だが、それは違うなと僕は思っていた。

T.S.エリオットのperfect criticとimperfect criticの差異を講義してくれた由良君美教授の授業も明快だった。僕の好きな展開法であったし、その解析法は自分と同じなので、エリオットの魅力は自分でも由良さん並に解釈出来た気がする。一口で言うとcause & effectとkey wordの掛け合わせから繰り出される知識系列には必然性があって理解に無理がなかったのだ。

その目で鈴木先生流の思考回路を解析すると、語学的な語句解釈から多岐に分化し、政治、社会、文化、歴史や国際関係へと波及していく。語学から別領域へ。際限もなく飛翔するのである。学術用語でいうと、当時はまだあまり知られていなかったinter-disciplinary(学際的展開)というジャーゴンで言えることだけれども、この技法で語学を説き分ければ、それは語学と関連性の深い文学だけでなく、社会学や哲学の弁証法にも結びつくし、さらに考察領域を拡大すれば、政治経済や自然界の、神羅万象の世界へと遡及できる。当然、諸データと共存させて多様性のある形象へと関係性を拡大することもできるのである。

つまり、鈴木氏の論考法は、一つの命題に関係性のあるポイントを引き出し、それがとても魅力的だと解ると、それからそれへと、一種の韻律をもって連鎖反応を起こす。思考回路の立体化である。その形成が無尽にできるということが聞く側には快かったのだった。

他方、対極にあるかと思える仏文の白井浩二、中文の奥野慎太郎、英文の西脇順三郎、厨川文夫の諸先生は知識量の差異というより専門性の蓄積量の差異と考えるとよいだろう。その神髄を引き出すには原典講読が欠かせないし、地味で時間もかかる。ゼミではその応用を続ければ与えた情報は熟成する。

学問とは方法論と定めたり、か。

ふと気づくと「昼食を食べに行こうか…」と誘われる。そんな先生が多くなり、そのうち食事をご一緒するのが当たり前の日々になった。池田弥三郎先生はよく幻の門を出てすぐ右に曲がった路地奥のあんみつ屋に連れて行ってくださった。談論風発、あんみつ屋で万葉集の講義である。江戸文学も出た。1体1で粋な小話もうんと聞いた。

サルトルの白井浩司教授は翻訳でいつも多忙を極めておられたが、当時は塾に予算もなく、彼の研究室を『三田文学』の事務所に充てる有様。僕は英文学科生としてではなく、塾生として仏文の院生たちとサルトルを論じ合った。足りない知識は読書量で補うほかない。下宿に帰るなり話題になった作品を読み直し、翌日にはそのキーワードやファクトを頭中に入れ込んでトークに参加するわけだ。

大橋吉之輔教授はアメリカ文学で、当時はヘミングウエイやスタインベックが流行る世間とは異なり、大橋氏はきらびやかなロスト・ジェネレーションには志向せず、むしろ鄙びたアメリカ中西部の田舎町の暮らしぶりを描くアンダスンに興味がおありだった。長編『貧乏白人』や『ワインズバーグ・オハイオ』という短編集に描かれた人間模様に親しみを感じるお人柄であった。

僕は当時西海岸で興隆したビート・ジェネレーションと20年代ジャズ時代のロスト・ジェネレーションを比較して両方の作歌群像を網羅的に調査して彼らの生きる哲学の比較論を英語で書き上げら博論級の厚さになったが、それを提出したのだが、大橋氏には気に入らなかったようである。学部学生としてはあるまじき論文だとか不平を言われたのを、今も覚えている。

学部の4年間はこうして瞬く間に過ぎ、卒業後、僕は東京国立にある桐朋高校という進学校の英語教諭になった。

⑵鈴木流知識体系の演繹法

鈴木先生流の知識体系はしかし興味深く忘れ難い。面白い。面白いだけでは演繹法にならない。勉強法としても使うにはその演繹法を辿らねばならない。僕は自分なりに英文法論をもっていたので、それを研究社という辞書の会社から出版したけれども、西欧の文法学者の領域から解脱できるほどの大作にはなれず、文法路線で進行せず、やはり文学に返り咲いてモームの長編を片っ端から読んだり、『月と六ペンス』や『人間の絆』と言った長編や南海物の短編を読み飛ばして、人間というやつはかくも卑劣なものかと、作者モームの心境で読んでは受験に熱心な生徒ばかりの教室に行くものだから、授業はろうなものじゃなかったと思う。

低迷期であった。鈴木先生や由良先生の教室が懐かしく、酒に浸っていたこともある。だが、そんな自堕落もやがて治まり、鈴木先生の文化論を読み返す気になって、立ち直り、アメリカ留学のために本格始動を始めた。

僕のディベート論法にそれを心得として加えて組み直すと、鈴木流なら鈴木流の知識体系の各端末に、A→A‘→A″につながる端子を出して控えるようになる。この方式をわきまえて展開すれば痛快に使えるはずで、それをエリオット流の批評に専念して、アメリカ文学の新作を次々読んでは文芸誌に発表する日々になった。

池田弥三郎助教授の国文学研究法は実証的で、万葉集の読み解きも芭蕉のように現地を歩いて実感している感動が伝わってくるから、当然、聞く人に実感を与える講義ができる。これは私にも影響を与えて、アメリカ史の初期独立革命を知るために、ボストンのfreedom trailを歩き回り、東印度会社のオフィスやポール・リヴィアが馬を繋いだ杭まで行ったし、汽車に乗ってレキシントンやコンコードまで行って、イギリス正規軍とアメリカ民兵とのドンパチでめり込んだ銃弾の穴にまで指を突っ込むまでやってのけたから、講義に迫力が出たしその時点で出したデータは活き活きと使えた。

その頃、僕は中野にある『新日本文学』の会員で、野間宏、佐多稲子、中野重治さんたちとかなり革新的な文学運動を一緒にやり、他方では中央公論の『海』、文春の『文學界』、研究社の『英語青年』に連載で掲載され鶴見大学の専任講師となり、数年後、東北大の教官に推挙された。

僕は大学院に上がって英語論文で博士号をもらう機会を逸したわけだが、東北大では私が精神分析学者の書くWalker Percy, The Last Gentleman という難解な作品(450ページ)を翻訳し、そこに誤訳がほとんどないと判明して評価されていたことも招聘の大きな理由だった。

これは大学に奉職する技法などというくだらないものではない。パーシィ流の精神分析に耽溺して読んでいたら、自分自身も精神分析学者となり、当時はやりのフロイトをはじめ、聖心分析や心理学に傾倒していかからこそ取り組めた仕事だった。延々800枚。乗せられた枚数は重荷でも何でもなかった。面白く読んで鈴木流に解釈して、誰が読んでも納得のいく言語で翻訳していく。高校で受験英語を教えた後、けっこう楽しんで仕上げた一冊だった。

鈴木孝夫氏はアメリカを日本人の観点からとらえ直しておられるが、僕は卒後、高校教師をやりながら「アメリカ研究」という新分野を東大の駒場の先生方と縦軸と横軸を構成することに腐心した。つまり、当時はまだ斎藤光、斎藤眞、久保田きぬ子、本間長世教授がみなさんご健在で、研究熱心はこの上なく活発。そこから得た知識群で自分自身、少しは語れる存在になった。

東北大助教授になったのはそれから数年後のことになるが、その間、僕は当時月例会が盛んな「アメリカ文学会」から声が掛かり、シンポジウムのパネリストになることが屡々で、それは月刊文芸誌の『海』、『新日文』、『三田文学』などに書きまくり、まだ若手の亀井俊介氏や僕も加わって、「アメリカ研究」を、「歴史」と「民族」と「移民」という三つの要素をもって構築。それが文学世界にも導入していた。ということは、一見、鈴木理論とは大分かけ離れた知識体系を作ることになったと見えるだろう。が、鈴木先生は、それはそれでいいと思われたと思う。

僕は後年、アメリカ文化センターで頂いたたくさんの情報や東大駒場で誕生した「アメリカ学会」で構築した「アメリカ研究」で、次々と著書を出していたから、鈴木先生とは観点視点も異なるけれども、歴史問答では面白くかみ合って、却ってよかったか、先生とはまた一段と親しくなった感がある。

⑶アメリカ時代での鈴木流研究法

僕が35歳頃だったが、東北大の助教授でいた時分、ニューヨーク州立大のバッファロー校で大学院生を相手にポストモダン米文学を教えていた時、近くの高校から講演に来てくれといわれた。レクチャーをあらかた終わって、日本でもシェイクスピアを読んでる、大学院でねと言ったら、高校生たちが怪訝そうな顔をする。

その空気が気になって後でレクチャー後、招いてくれた先生に訊いたら、「アメリカでは『ハムレット』や『マクベス』は高校の教科書で読みます、ほら、これです」と分厚いテキストをどさりと手に乗せられた。何と部分掲載ではなく、終わりまでスキップせず、一作を2週間で読むのだと言う。日本型の、少量を精緻に読み解く、というような読み方は果たして実力に結びつくのか。鈴木先生の膨大な知識量はどれもこれも活性化されているが、大学受験で培ったような精緻な、少量の知識は果たしてどんな実力になっているというのだ。

知識とは膨大な体系であって、一字一句きちんと覚えて100点を取る式では、とうてい知識人の端くれにもなれない。

結局、僕が明日の火種というか、話題に備えて必死に読んでは頭に叩き込んで、どの話題になっても直ぐ取り出せるように、いわば“文学のディベート”を続けたのがよかった。学生時代から始めた自己特訓が効を奏したのである。鈴木孝夫氏の『鈴木孝夫の世界』第3集(冨山房、2012)を例にとれば、それがよく解る。

鈴木先生から頂戴したご著書を前に、僕は慶應義塾の文学部英文学科で学んだことを今更ながら貴重な体験だったと述懐している。有難う鈴木先生。この想い出の記に登場された諸先生は今や総てこの世の人ではない。皆さん、有難う。僕ももう直ぐ黄泉の国へと出立しますが、まだまだ頑張りたい。どうぞ叱咤激励の目でお見守りを。(了)