三浦短歌会との合同歌会 令和三年三月二七日
       記録と詞書 日本浪漫学会 河内裕二
 
 毎年気象庁から東京の桜の開花宣言が出される。今年は三月十四日で、昨年と同日の二年連続の観測史上最も早い開花日となった。桜は開花より一週間から十日ほどで満開となる。歌会が開催された三月二七日はまさに花は咲き誇り、木によっては少し散り始めて花びらが慎ましやかに舞っていた。桜を愛でるには最高の日となった。地球温暖化の思わぬ恩恵か。歌会は三浦三崎の「民宿でぐち荘」で午前十一時より始まり、第二部には花見の宴が催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の加藤由良子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  コロナ禍で自粛の日々も桜咲き
    鶯鳴きて暫しの癒し 光枝
 
作者の嘉山光枝さんは自然豊かな場所にお住まいで、この時期にはご自宅の側に咲く桜の花を眺めていると鶯の鳴き声が聞こえてくると仰る。コロナ禍で自粛が求められる生活に変わってしまっても、自然の営みはいつもと変わらない。春になれば木々は芽吹き、鳥はさえずる。身近にある自然の美しさに癒やされ、安らぎを得ましょう。本作はコロナ禍でどこか窮屈で落ち着きを失った社会に対しての嘉山さんのメッセージだろう。
 鳥の中でも鳴き声が美しく印象的なのはやはり鶯である。容姿はメジロの方が「うぐいす色」で、鶯は緑よりもむしろ茶色っぽく、鑑賞するならメジロ、声を聴くなら鶯と皆の意見が一致。メジロの話が出たところで、濱野会長から「メジロ取り」という東京青梅市で聞いた慣習についてのお話があった。「メジロを取らせてください」と言って他人の庭に入って行くと、その家の奥様がどうぞどうぞと縁側に招き入れ、お茶が振る舞われる。しばし待っていると妙齢なお嬢さんが出てきて挨拶をする。実はこれは結婚の聞き合わせで、メジロ取りに扮して言うと相手もそれを心得ていて応対する。梅で有名な青梅市ならではの慣習である。
 梅の花にはどこか可愛らしさがある。「梅」といえば確かに「メジロ」が似合う。「桜」にはどんな鳥が似合うのか。「桜」と「鶯」というのであれば、こんな歌はどうだろう。
 
  世の中に絶えて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし 在原業平
 
 業平の有名な桜の歌を良寛が本歌取。
 
  鶯のたえてこの世になかりせば
     春の心はいかにかあらまし 良寛
 
 続いても桜の一首。
  潮風とお湯の温度が絶妙と
     露天に入る桜と共に 由良子
 
 作者は本日ご欠席の加藤由良子さん。海を望む露天風呂には桜の花びらが浮かび、潮風で温度は絶妙。そこまで言われてしまうと誰もが今すぐ行きたくなる。ご本人から寄せられたコメントによると、「新聞のチケット案内が当たり油壺の温泉ホテルに行って露天風呂を楽しんで詠んだ歌。春とは名ばかりで外は寒くお湯は熱い。目の前の桜の大木は散り始め、前方に海を見ながら入る露天は最高だった」とのこと。出席者の皆が羨ましく思うとともに加藤さんのますますのご健勝をお祈りした。
 
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 濱野会長より上田三四二の短歌論『短歌一生』に「心の色」と題する文章があることを教わった。上田三四二は謡曲「熊野ゆや」で覚えた「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」という文句はまさに短歌に当てはまると述べている。短歌の技法とはこの内なる思いをどう形にあらわすかの工夫に他ならず、作品の高低は、作者のその時期における生き方の気息に照応しているとする。「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」すなわち歌には心の色があらわれる。これほど明解な短歌論があるだろうか。紀貫之が『古今和歌集』「仮名序」に書いた「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」にも通づる。
 嶋田さんの歌は心の色がストレートに出ていて素晴らしい。
 
  春は惜しみまかる師の影時移り
     桜吹雪の日和も疎まし 成秋
 
この春に敬愛する二人の恩師と小学校のクラスメートを亡くされた濱野会長がお詠みになった歌。春といって思い出されるのは西行法師の歌だそうで、同じ死ぬなら花が咲いているその下で自分は死にたいと西行法師は言うが、いくら春でも大切な方がこんなに多く一度に亡くなられてはたまらない。春が散らすのは桜の花だけではないのだとしんみり仰る。
 
  願はくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ 西行
 先生との良き思い出の時が移り師の薨る姿に手を合わせなくてはならない日が来た。それも春に。薨る人がこんなに多いと桜の花を見てもよい日和だなんて思えない。本日この会に来てその暗い気持ちからようやく抜け出せて桜を愛でて春になってよかったと思える心境になれたと濱野会長。
 筆者は「薨」という漢字を初めて見た。「身罷る」の漢字表記が普通だが、「夢」の下の部分に「死」と書いて「みまかる」となるのは知らなかった。調べてみると、「薨去」という言葉があり、皇族などが亡くなった際に使われるとのこと。「身罷る」ではなく「薨る」。濱野会長がいかに恩師を敬愛されていたのかが漢字一字で表現される。日本語は奥深い。
 
  雨は降る舟よ動けと念じても
     舟は繋がれ 白秋を恋う 和子
 
 今回も外出許可が下りずにご欠席の清水和子さんの作品。コロナ禍で外出できないご自身を舟に喩えられたのでしょうか。嘉山さんによると清水さんがお住まいのホームはすぐ前が諸磯湾とのことなので、湾の船を見てお詠みになったのかもしれない。「白秋を恋う」という結句から白秋と何か関係があるのかと思っていたら、三宅さんが白秋の作詞した『城ヶ島の雨』という歌があり、詩には「雨はふるふる」や「舟はゆくゆく」という言葉もあるので、その歌で白秋を思って詠んだのだろうと推断。
調べてみると『城ヶ島の雨』は大正二年に三崎に住んでいた白秋が作った詩に「どんぐりころころ」などを手掛けた梁田貞が曲をつけた舟歌である。詩は当時の白秋の苦しい心境を表していると思うが、舟歌にしたのは自らの新たな船出を願ってのことではないか。現在城ヶ島大橋のたもとには白秋直筆の詩碑がある。
 
  病む友の恢復願ひ宮参り
     梅の匂ひのけふは柔らか 裕二
 
 知人が病気で治療中と聞いて、一日も早く完治してもとの生活に戻って欲しいと願いお宮に参拝した。その時に筆者が詠んだ一首。病気がよくなるという意味では「快復」という漢字が使われるが、知人は行動的な人でいつも忙しくしていた。病気はもちろんその活動的な生活も元に戻って欲しいとの思いから「恢復」にした。
 下句の柔らかい印象から作者の友人を思う気持ちが伝わってくるとのご感想を皆さんからいただいた。菊は香るが梅は香らない。梅の「香り」ではなく「匂ひ」としているところが良い。この歌には気品さえあるとは濱野会長のお言葉。
 
  枇杷の花、梅の花へとくる野鳥
     しばらく群れて直ぐに飛び立つ 良江
 三浦は野鳥が多い。先日もとんびの行動が印象的だったと作者の玉榮良江さんは仰る。玉榮さんのお話では、ご自宅の近所の山にとんびが巣を作っていた大木があり、その木が伐り倒される際に作業員に向かってとんびが飛んできた。まるで伐採に抗議するかのようだった。山には小さいとんびも飛んでいたので、その木で生まれて巣立ったのかもしれない。なぜ木が切られたのかは伺わなかったが、巣を失ったとんびはどこへ行ったのだろうか。
 「しばらく群れて直ぐに飛び立つ」の部分はまったくその通りで、鳥というのは、いるのは一時で直ぐにいなくなる。よく俳句は写生と言われるが、短歌も自然やものをよく見ることが基本だろうと三宅さん。写生歌といえば正岡子規の有名な一首が思い浮かぶ。
 
  瓶にさす藤の花ぶさみじかれば
     たゝみの上にとゞかざりけり 子規
 
 何気ない客観描写のようだが、子規が晩年病床に伏していたことを知る者ならば、花をどこから見ているのかと視線の位置を考え、歌に描かれていない作者の姿さえ見えてくる。さらに描写自体がどこか彼の心の声のようにも思えてくる。優れた写生歌は多くのことを物語る。
  五十円大根二本求めると
     傷ある大根一本おまけ 尚道
 
なんとも個性的な歌である。「五十円」「二本」「一本」と数詞が多く使われ、出てくるのは「大根」だけ。普通ならばただの説明になるところだが、これが歌になっているから不思議である。
 本作は以前にも「五十円大根」を詠んだことがあると仰る三宅尚道さんの歌。今年は野菜が豊作なのにコロナの影響で需要が減り売れなくて農家は困っている。捨ててしまうくらいなら五十円でも売った方がよい。形が悪かったり傷ついたりしたものは出荷ができないからおまけで付けられているそうだ。三浦なので三浦大根だろうか。筆者の暮らす東京のスーパーでは青首大根ばかりで三浦大根は見かけないが、煮物にすると美味しいですよと皆さんが教えてくださった。
 大きくて美味しい大根が五十円とはなんとお得かと思ってしまった筆者はこの地では「よそ者」の証拠だろう。誰にとっても安いのはありがたいが、地元の誇りの大根が投げ売りされていれば、どこか悲しく切ない気持ちになる。そうさせる社会に対しての疑問や怒りの感情も静かに湧いてくる。スーパーの広告文句のように淡々と述べられるとなおさらである。作者はそこまで計算している。
 充実した歌会を終えて別室に移り春の宴が始まる。地元で評判の「でぐち荘」さんのお料理をいただく。筆者は三度目だが、皆さんはよく来られているようで、三浦は海と山の両方の幸に恵まれた土地ゆえに地の食材を活かしたお料理はどれも絶品だった。三崎の鮪も入ったお造りに金目鯛の煮付けやサザエの壺焼きなどの海のものに加え、和え物や煮豆に天ぷらや茶碗蒸しなどの山のもの。美味しいだけでなく品数も多い。天ぷらの盛り合わせには蕗もあった。蕗の天ぷらをいただくのは初めてだったが、歯ごたえがあってとても美味だった。大根のはりはり漬けはもしかすると三浦大根だろうか。目の前の諸磯湾の天草で作った自家製のところてんをデザートにいただき大満足でお食事を終了。
 前回の歌会で嶋田さんから伺った十三塚に皆で向かう。車でしばらく坂を上がって行くと四方を見渡せる見晴らしの良い丘の上にある嶋田さんの菜園に到着。とにかく景色が素晴らしい。なるほどここに立って空を見れば歌を詠んだ嶋田さんの気持ちもよく分かる。
 十三塚に関しては三宅さんが調べて資料をくださった。みうらガイド協会が発行する『三浦の散歩道』に田中健介氏による十三塚への言及がある。田中氏によると『新編相模国風土記稿』(一八四一)に十三塚は「村の東方に相並て在り、高さ六尺許」と記されているとのことで、田中氏は地元の歴史研究家の案内で一箇所だけ塚を見つけることができたと書かれている。
 嶋田さんはすでに塚の土地の所有者の方から話を伺い塚についてお詳しい。嶋田さんの案内で私たちは三箇所を訪れることができた。そのうちの一つは残念ながらそこにあったと伝え聞くのみで塚の痕跡はなかった。他の二つは高さ一メートルにも満たない小さな塚が確認でき、一つには卒塔婆も立っていた。『新編相模国風土記稿』の高さ六尺となると百八十センチぐらいになるので、この塚ではないだろう。
 十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚だと言われているが、彼らが亡くなってから約五百年が経過し、現在わずかにいくつかの塚が残るのみである。実際に塚に家臣は埋葬されたのか。他の塚はどこにあるのか。歴史家であれば事実も重要だろう。しかし事実よりも先人を思う気持ちが重要ではないかと筆者はこの場所に来て実感した。先人も同じ空を見たのだろうかと思って嶋田さんは「時の動きを中宙に視ゆ」と詠んだ。上田三四二は「歌には心の色があらわれる」と言うが、人を思う気持ちが歌になる。濱野会長は恩師を、筆者は病気の友を、清水さんは白秋を、より広く植物まで含めた衆生となれば、本日の詠草はすべて彼らへの思いを詠んだものだ。晴天の空の下、眼下に広がる風景と畑に咲く花を眺めながら催されたノンアルコールの「酒宴」の席でそんなこともふと考えた心洗われる佳き日であった。
嶋田さんの菜園にて。左より嶋田弘子氏、嘉山光枝氏、濱野成秋会長、玉榮良江氏、三宅尚道氏。
別の塚。草に覆われて見えにくいが卒塔婆も立つ。
十三塚の一つ。畑の中ほどにある突起が塚。