募集中
 
 オンライン格言集
 
●オンライン万葉集編纂所では同名格言集を世界中から募集することになりました。奮ってご応募ください。採用されたものは総て未来人への贈り物となります。現今のコロナウイルス対策は幕末期のコロリ(コレラ)対策法から一歩も出ていない情けなさ。文明の進歩などおよそ便りにならない。格言こそが人の心を奮起させます。
 
        主唱者 本学会会長 濱野成秋
        審査員 理事一同
           令和二年四月一九日
 
 
    凡例
 望みはありませんが、光はあります
               JR 職員
 
[評釈]これはみどりの窓口で新幹線の空席状況を質問された時の答えのようですが、人生哲学としては秀逸。「人間の欲する望みは絶たれたかも知れない。しかし天恵を待て。天は汝を見棄てない」の意。法然上人曰く、「月影の至らぬ里はなけれども眺むる人の心にぞ住む」天恵はあると信じてこそ汝の希望は叶うのだと諭される。勇気も出る。現今の拙いコロナ騒ぎぐらいで心を塞ぐな。天恵を待て、とも読み取れる。現にコロリは抗体のおかげで急速に治まった。
 むかしの光、今いずこ
               土井晩翠
[評釈]荒城の月の一節。この城が隆盛を誇っていた頃、花の宴もここで持たれただろうに、今は荒れたまま。盃に燦燦と降りそそいた陽の光も消え果ていずこへと消えた。秋、ここは戦場となり憤死した武士の土饅頭にぶっ差した剣に月光が降り注いでいたであろうが、今では剣も土饅頭もない。植うる剣に照りそうた月光は今は消えた。つまり彼の武勇を知る者とてない。人の世とはそういうものだ。
 諸行無常で片付ければそれまでだが、この世の人よ、自身の存在もやがては果てて追想するものとて居なくなるのだから、人生、何を成すべきや。
 この、一見、格言ではない無常観を歌った詩だが、これを幼少期から折に触れて歌っていると、この、動かしがたい無常観に抗っても何事か成すべしと思わぬか
 
 一に掃除、二に勤勉、三に学問
               上宮高校 教職員
 
[評釈]学問一途が高校生なのに、この学校は三番目かよ。と思うは短絡に過ぎる。これも法然上人の教えの一つで、まず心に住まう邪念を祓えという。雑物に満ちた環境の整理もできんようでは、些末事から解脱出来ぬまま学を修めるから、それは邪念の手助けになるだけ。モノにはならぬ。勤勉とは自分の持前の才覚をうんぬんするな、ひとえに努力せよということ。さすれば、才能ある怠け者より立派になれる。そう信じて勤行する。
それを在家には勤勉と置き換える。この視点で世に蔓延る進学校の卒業生の動向を診れば嘆かわしいばかり。若い頃にこの一と二がないから難関大に入って高級官僚になっても、出世ばかりに邁進し私利私欲に走って定年後は税金泥棒の渡り鳥になる。高校の格言として、この、一に掃除から始まる格言は言いえて妙であり神々しい。この学校では親孝行を推奨するというが、それもこの哲学に通じる立派な教えである。
募集中 2 令和二年四月二〇日
 
 オンライン格言集
 
        主唱者 本学会会長 濱野成秋
        審査員 理事一同
 
 格言とは名を上げた者だけが下せる特許状ではない。悩み苦しんだ者だけに許される悲痛な申し送り事項である。
               濱野成秋
 
[評釈]庶民は名や言葉をこの世に遺すことを厭う。尊大な生き方を潔しとしないからだ。だから名句を吐いても破いて棄て去る。そうして失われた名言があれば、人はもっと賢明に生きたものを。
 名を付して言葉を遺す行為は一見節度ある態度と見えるが、文責を回避する行為とみなされるのが普通である。したがって我が意を表明する場合には必ず名乗りを挙げられよ。目立ちたがりやだと思われてもよい。練りに練った良き格言は人を励まし奈落から救う。
 ●みなさん、奮ってご応募ください。
 
 「今日」という日にあやつられるな。奴は過去の全ての歳月を蹴飛ばして何食わぬ顔で現れた煌めく極悪人である。
               濱野成秋
[評釈]これは自分の人生からしばしば感じた実感そのものである。
 今日という時間帯は過去のどの日に増して力強く輝いて見える。だがその限られた時間帯に、ろくなことが出来ず、気がついたら陽が沈みかけている。まあ明日があるからと期待して悔しがらないで夜を迎えるが、実際はこの輝ける様相をして朝日と共に現れた今日という怪物にすっかり翻弄させられただけにすぎない。
 筆者はそれに気づくことが多い。世間には気づかぬまま今日という時間帯を見過ごす人が多かろう。人は今日を大事にせよという。過去を忘れ未来を考えろとも。輝ける今日、輝ける未来か。だったら過ぎ去った日々は輝いてなかったのか? ゴミ箱に捨てて惜しくはないのか。
 今日が出現したために、昨日あった今日は半分ボケて背中を見せて去っていく。一昨日はどうだ? もっと影が薄い。印象も記憶も、何もかも砕かれて散らかったままだ。
 一か月前の今日って何をやっていたか。手帖を見ないと何も思い出せない。去年の今日は? と古ぼけかけた黒革の手帳を取り出す。にじんで読めないボールペンの文字。誰かと会っていたな。あれは流れ話に終わったな。五年前は? 俺はまだ定年じゃなかった…輝いていた! 本当か? いや次の職場がなくて、憂しと見し世ぞ今は恋しきだと、もう、もがき苦しんでいたではないか。
 事物や諸現象にとって時という奴は悪辣千万な存在である。だってそうろ、五年前、ゴルフ場でしっかり大地を踏みしめて動いてくれた両脚も、今じゃぐらぐらさせとる。額を見ろ。この大地のごとく毛髪を生やしていた皮膚から生え出る白い枯草は何? 何が作用した? 歳月だろうや。
 今日の日を「極悪人」だと思って対面しよう。油断するな、そいつを巧妙にこき使ってやろう。撫で付け攻めつけ、その額に己の血判を次々と押し付けるぐらいの気力で、この極悪人に烙印を押して回ろう。
 この格言、多分にビアス的であるが、筆者の腹の底から出た発想だ。
 ●みなさん、奮ってご応募ください。
 孤独だからいい仕事ができる。
               濱野成秋
 
[評釈]これも実人生から導き出された格言だが、前項ほどねじくれてはいない。自分自身の人生訓として体得した、素直な心得でもある。
 教授会あり、委員会あり、学校説明会あり、卒論に手を入れてやり、院生に推薦状を書いてやりで、現役時代は多忙な日々の連続だった。自分の存在感さえ見失いがちであったから、何よりも欲しかったのは孤独な時間だった。例えば本務校の日本女子大を夕方5時に終えるやその足で青山学院へ。アメリカ文学特講で19世紀東欧系移民とニューヨーク市の労働状況はと語り乍ら…知識量が勝負の板書に次ぐ板書。この講義ものには各国の大使館や領事館の館員たちが毎夕数十名参加し、120名以上で教室は満杯。終わって帰宅。夜中十時。そこから中央公論社から依頼のシミュレーション小説『日朝、もし戦えば』八〇〇枚の原稿の執筆へ。
 この孤独な仕事に何より充実感があった。昼間の仕事もやりがいはあるが、孤独に書斎にて長編小説を書くとき、僕は孤独でありながら何十人という登場人物になり切って物語を組み上げる。大いに気に入っていた。孤独な作業こそ、自らの想念で天下国家に訴え続けられる時間帯だった。
 ●みなさんもどうぞ奮ってオリジナルの座右の銘をお寄せください。